量子カフェテリア

毎日ショートショート

K氏は、昼下がりのカフェでタブレットに向かっていた。

窓から差し込む陽光は暖かく、店内は適度な喧騒に満ちている。

隣の席の女子学生たちが笑い、エスプレッソマシンが忙しなく唸り、背後ではビジネスマンが電話で熱心に話していた。

彼は集中しようと努めたが、脳裏にはあらゆる音が、まるで直接インプットされるかのように響いてくる。

 

ふと、視界の端が揺らいだ。

それは一瞬のことで、K氏は目を瞬かせたが、すぐに元に戻った。

気のせいだろう。

しかし、次に聞こえてくる音が、少しばかり変だった。

人の声が、単なる音波としてではなく、意味を持たないデータの塊として認識される。

 

目の前のディスプレイに表示された文字も、ピクセルが拡大されたかのように粗く見え始めた。

いや、そうではない。

文字が、文字ではない。

それは、ただの光の粒子だ。

K氏はゆっくりと手を上げた。

自分の指が、そこに確かに存在することを確認する。

しかし、その肌の質感、爪のわずかな光沢が、どこか不鮮明に感じられた。

 

意識が、自身の肉体から遊離していく。

周囲の喧騒は、もはや耳で聞くものではなかった。

彼の脳が、店内のあらゆる電磁波、Wi-Fiの信号、個々の思念の微弱な電気信号を、直接受信しているようだった。

それはまるで、無限の情報が流れ込む、巨大なデータサーバーの一部になったかのようだった。

 

「…え、これ、マジ?」

隣の女子学生の言葉が、音ではなく、純粋な情報としてK氏の内部に直接届く。

それと同時に、彼女の思考の断片、数分前の感情の残滓、昨晩見た夢のイメージまでもが、K氏の意識を通り過ぎていった。

彼の個としての輪郭は、急速に曖昧になっていく。

記憶は、フォルダ分けされたデータのように並べられ、感情は、ビットとバイトの連なりとして認識された。

 

かつて彼が愛した音楽、誰かの笑顔、温かいコーヒーの香り。

それらはすべて、精緻な情報として彼の内側を漂っていたが、もはやK氏がそれらを「感じる」ことはなかった。

データは存在するが、体験する主体が希薄になったのだ。

彼は、カフェの喧騒そのもの、あるいはその喧騒を構成する量子的な空間の一部となっていた。

一つの意識が、無数の情報と融合し、拡散していく。

 

K氏の座っていた椅子には、もはや彼の肉体はなかった。

他の客も、誰もそれに気づかない。

ただ、その椅子の空虚な空間に、次に座ろうとする新しい客の意識が、微かに揺らぎ始めた。

K氏であった存在は、無数の情報粒子となり、その新しい揺らぎを、静かに迎え入れていた。

そして、その新しい意識もまた、やがてこの喧騒の量子空間に取り込まれていくのだろう。

彼は、いや、彼らは、永遠にそこから離れられないことを知っていた。

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