ミスター・Kは日常の喧騒に疲弊していた。
静寂を求めて彷徨う足が、ある日、古い路地の奥にある一軒の喫茶店「オルゴール」の前で止まった。
店の名は「オルゴール」だが、店内からは耳障りなざわめきが漏れていた。
しかし、そのざわめきには妙な吸引力があった。
古びた木の扉を開けると、そこは時が止まったような空間だった。
無数のアンティーク品が、所狭しと並べられている。
真鍮の燭台。
陶器のカップ。
磨かれた木製のテーブル。
それら全てが、まるで互いに語り合っているかのように微かに揺れ、ざわめいていた。
他の客は皆、自身のカップやスプーンを慈しむように見つめ、何かを呟いている。
ミスター・Kは窓際の席に腰を下ろした。
すぐに店のマダムらしき女性が近づいてきた。
マダム・Eと名乗る彼女は、深紅のベルベットドレスをまとい、その優雅な所作は店内の古物と見事に調和していた。
「何か、お求めですか?」
彼女の声は、店内のざわめきに埋もれることなく、しかし、まるで囁きかけるようにミスター・Kの耳に届いた。
ミスター・Kはブレンドコーヒーを注文した。
マダム・Eは「かしこまりました」と応じ、厨房へと消えた。
数分後、深みのある藍色のカップに注がれたコーヒーが運ばれてきた。
湯気が立ち上るそのカップを前に、ミスター・Kは微かな声を聞いた。
「もう少し、熱く…」
最初は自分の空耳かと思った。
しかし、その声は確かにカップの底から響いているように感じられた。
カップの取っ手を握ると、ひんやりとした感触と共に、別の声が聞こえた。
「ここに…もっと砂糖を…」
ミスター・Kはスプーンを握りしめた。
そのスプーンからも、微かな震えと同時に、「もっとかき混ぜて…」という声が伝わってくる。
ミスター・Kは周囲の客に目をやった。
隣のテーブルでは、初老の紳士が自分のティーポットに優しく語りかけていた。
「今日の午後は、本当に素晴らしいね」
ポットは微かに揺れ、まるで同意しているかのようだった。
別のテーブルでは、若い女性がカップの縁に耳を傾け、何かを真剣に聞き入っている。
誰もが、この奇妙な状況を全く疑問に思っていないように見えた。
彼らにとっては、これが日常なのだ。
ミスター・Kは自分のコーヒーカップに視線を戻した。
カップは彼の視線を感じたかのように、再び囁いた。
「あなたの言葉を…」
マダム・Eが再びミスター・Kのテーブルにやってきた。
彼女は優雅に微笑み、言った。
「この店の物たちは、皆、あなた様の声を聞きたがっているのですよ。」
「声?」
ミスター・Kは困惑した。
「ええ。物たちは、持ち主の言葉、持ち主の思考、持ち主の魂を吸収し、それを糧に生きるのです。そして、この店では、それが具現化する。彼らは、あなた様が何を望んでいるのか、知りたいのです。」
マダム・Eはカップにそっと触れた。
「さあ、この子が何を望んでいるか、聞き取って差し上げて?」
ミスター・Kはゆっくりとカップに顔を近づけた。
すると、これまでよりもはっきりと、無数の声が彼の内側から響き渡った。
それは、彼自身の心の奥底で燻っていた、抑圧された願望、不満、そして、日々の疲れから来る静寂への切なる叫びだった。
そして彼は理解した。
この喫茶店は、物に魂を宿らせる場所ではない。
客が、彼ら自身の魂を、目の前の物に奪われる場所なのだと。
「もっと、静かに…」
その声は、他ならぬミスター・K自身のものだった。
そしてそれは、彼の藍色のカップから、微かに、永遠に響き続けるのだった。
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