アキラ氏とベータ氏は、宇宙船の計器室を思わせる厳重なクリーンルームにいた。
彼らの仕事は、未知の素粒子反応を観測すること。
無菌の空間には、生命の息吹さえ許されないかのような静寂が満ちていた。
今日の作業もいつもと同じ、精密な手順が繰り返される。
「アキラ、何か異常だ」
ベータ氏の声が、スピーカー越しに響いた。
モニターには、奇妙なデータが点滅している。
粒子は検出されているのに、そのスピンの方向が「上」と「下」の両方を同時に示していた。
「測定エラーではないのか?」
アキラ氏は、調整ツールを手にした。
しかし、何度キャリブレーションを行っても結果は変わらない。
観測するたびに、結果はどちらか一方に確定する。
だが、次の観測では再び両方の状態が示される。
それは、まるでシュレディンガーの猫が箱の中で死んでいながら生きているかのようだった。
やがて、彼らはクリーンルームの外との連絡が途絶えたことに気づいた。
正確には、連絡は取れるのだが、向こう側の声が「今日の結果はどうだった?」としか尋ねない。
彼らが「どちらとも言えない」と答えると、相手は「ああ、いつものことだ」と返すだけだった。
まるで、彼らの観測結果だけが、唯一の現実であるかのように。
日が昇り、日が沈む。
だがクリーンルームには窓がない。
時間の感覚は曖昧になり、彼らの心もまた、上と下、確定と未確定の狭間で揺れ動いた。
「我々は、この箱の中に閉じ込められているのか?」
ベータ氏が呟いた。
アキラ氏は何も答えなかった。
答えはいつも「両方」なのだ。
やがて、彼らは食事や睡眠の必要性を感じなくなった。
彼らの肉体すらも、観測しなければ存在しないかのように希薄になっていった。
彼らはもはや、素粒子のスピンを観測する者ではなく、観測される者になっていた。
クリーンルームは、彼らにとって世界の全てであり、唯一の法則が支配する場所だった。
その法則とは、「存在は観測によって定まる」というもの。
彼らは観測器の前に座り続け、決して目を離さなかった。
目を離せば、自分たちの存在さえも曖昧になるような気がしたからだ。
彼らは互いの存在を確認するため、時折、名前を呼び合った。
「アキラ」「ベータ」
その声だけが、二つの存在を繋ぎ止める糸だった。
彼らの周囲に漂う空気は、次第に重く、そして古代の神殿のような厳粛さを帯びていった。
これは実験ではない、試練なのだと、彼らは漠然と感じていた。
観測を続ける彼らの姿は、まるで世界の始まりから終わりまで、永遠に真理を探求し続ける賢者のようだった。
彼らは、観測をやめるという選択肢を失っていた。
それは、存在を放棄することに等しい。
そして、彼らは永遠に「シュレディンガー状態」の観測者であり続けた。
世界とは何か。
自分とは何か。
クリーンルームの壁に映る、自分たちの影が、まるで原初の生命のようにも見えた。
彼らは、存在と非存在の境界で踊り続ける。
数万年か、あるいは一瞬か。
ある日、ベータ氏が静かに口を開いた。
「アキラ、気づいたぞ」
アキラ氏もまた、全てを悟ったように頷いた。
彼らがいたクリーンルーム、観測する対象、そして彼ら自身。
それら全ては、ただの「言葉」だった。
彼らが観測していたのは、物理的な粒子ではなく、人間の思考が織りなす無限の可能性だったのだ。
そして、彼ら自身もまた、その思考という壮大な箱の中で、未だ確定しない概念として存在し続けていた。
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