アキラは数週間、まともに眠れていなかった。
夜は長く、天井の染みすら意味を持つ記号に見えた。
日中の現実と、夜の幻覚の境が曖昧になっていく。
ある晩、いつものように目を開けたまま横たわっていると、壁に微かな光の筋が走った。
細い亀裂だった。
それは次第に広がり、黒い口を開ける。
アキラは吸い込まれるように、その裂け目へと足を踏み入れた。
そこは無機質な空間だった。
白い壁、白い床。
中央には大きな黒いモニターが浮かび、傍らには白衣の男が立っていた。
男はアキラを一瞥すると、淡々と言った。
「ようこそ、アキラさん。博士と呼んでください」
アキラは混乱していた。
「ここは……一体?」
博士はモニターを指差した。
「ここは『選択改変室』です。あなたの不眠が深層意識とのゲートを開き、ここにアクセスすることを可能にしました」
モニターには、アキラが過去に下した無数の選択肢がフローチャートのように表示されていた。
「この中から、やり直したい選択を選び、変更することができます」
アキラは驚いた。
過去のあらゆる後悔が脳裏をよぎる。
あの時、別の道を選んでいたら。
彼は迷わず、数年前の失敗プロジェクトの選択肢を選んだ。
モニター上の分岐点が変更され、空間が揺らぐ。
気が付くと、アキラは自室のベッドにいた。
だが、不思議と眠気はなかった。
翌日、会社に行くと、確かにプロジェクトは成功していた。
しかし、別の小さな問題が発生し、新たな後悔が生まれた。
その夜もアキラは眠れなかった。
再び壁の亀裂が現れ、彼は『選択改変室』へ戻る。
「またお越しになりましたね」と博士。
アキラは疲弊した顔で言った。
「何度やり直しても、完璧にはならない。常に新しい後悔が生まれる」
博士はモニターに目を向けたまま答えた。
「それが現実です。選択は無限に存在し、それぞれが異なる結果を導きます」
アキラは絶望した。
「もう、終わりにしたい。この無限ループを止めてほしい」
博士は頷くと、懐から小さな立方体のデバイスを取り出した。
デバイスの側面には、アキラの顔写真が貼られている。
「承知いたしました」
博士はデバイスの背面にあるスロットから、透明な記録媒体を抜き取った。
途端に、アキラの全身に抗えないほどの眠気が襲いかかった。
彼はその場で倒れ込むように意識を失った。
博士はデバイスを静かにデスクに置いた。
そして、別のデバイスを手に取り、その画面を覗き込む。
「ふむ、この物語もそろそろ終盤か。次はどんな結末にするか…」
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