昼下がりの市民課受付は、いつも通りの混雑を見せていた。
ムラタ氏は、住民票の写しを申請するため、長い列の最後尾に加わった。
彼の前には、焦れた様子の老婦人が立っていた。
老婦人は、窓口の若い女性職員に何かを熱心に訴えかけている。
声が大きく、少しばかり苛立ちが混じっていた。
ムラタ氏は「また何か揉め事か」と、特に気に留めることなく、スマートフォンの画面を眺めた。
やがて、老婦人は諦めたように窓口を離れ、ムラタ氏の番が来た。
彼は一歩前に進み出た。
窓口の「サトウ」氏と名札にある女性職員は、にこやかにムラタ氏を迎えた。
ムラタ氏は笑顔で、「住民票の写しを一枚、お願いします」と、はっきりと告げた。
サトウ氏の顔に、微かな困惑の色が浮かんだ。
彼女は首を少し傾げ、「えっと…もう一度、よろしいでしょうか?」と、戸惑ったように問い返した。
ムラタ氏は訝しんだ。
自分の滑舌には自信がある。
彼は丁寧に、そしてゆっくりと、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「住民票の写しを、一枚、お願いします」
しかし、サトウ氏の困惑は一層深まるばかりだった。
彼女は明らかに理解できていない様子で、「申し訳ありません、あの…何をおっしゃっているのか、どうしても…」
顔を赤らめ、狼狽し始めた。
ムラタ氏は困惑した。
隣の窓口からも、似たようなやり取りが聞こえてくる。
「…ですから、印鑑証明書の発行を頼んでいるんです!」
「大変恐縮ですが、その…意味が掴めませんで…」
ムラタ氏は試しに、全く関係ないことを口にした。
「今日は本当に天気がいいですね」
サトウ氏はぱっと顔を輝かせ、「ええ、本当に!気持ちがいいですね!」と、笑顔で答えた。
どうやら、特定の言葉だけが通じないらしい。
「住民票」や「印鑑証明書」、そしてそれらに関連するあらゆる行政手続きの用語が、職員には全く聞こえていないようだった。
周囲はすでに騒然となっていた。
「まさか、耳がおかしいのか?」
「何かの嫌がらせか?」
市民たちは怒号を上げ、職員たちはただただ困惑するばかりで、その騒ぎの理由すら理解できていない。
まるで、市民と職員の間で、ある種の「語彙」だけが完全に分断されてしまったかのようだった。
ムラタ氏はその光景を、達観した目で眺めた。
突然、館内放送が響き渡った。
「皆様、ご迷惑をおかけしております。ただいま当庁舎では、試験的に導入されました『感情的語彙削減システム』の最終調整を行っております。
ご不便をおかけしますが、しばらくお待ちください。
申請内容を口頭でお伝えいただく際は、ご自身の感情を一切含まず、平坦な声でお話しください。
皆様が感情を込めるたびに、システムが作動し、該当する語彙がフィルターされます。」
ムラタ氏はポケットから小さな紙を取り出した。
それは彼が昨日、政府からの通知として受け取ったものだった。
そこには小さな文字で、「本システムのテスト運用期間中は、感情を伴う申請は一時的に処理されません」と書かれていたが、ムラタ氏は通知を、いつものように感情的に読み飛ばしていたのだ。
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