深夜零時、軌道エレベーター・カーゴ修理ドックは静まり返っていた。
K氏と助手Aは、定期点検のため、巨大なカーゴの脇を歩いていた。
金属と油の匂いが、澄んだ夜の空気を満たしている。
「異常なし、と」
K氏がタブレットのチェックリストに印をつけた。
助手Aは、メインコンソールに表示された数値を読み上げる。
「メインジェネレーター、出力安定。航法システム、誤差ゼロ。全て正常です、Kさん」
その時、ドックの奥、廃棄モジュール保管区画から、微かな電子音が聞こえた。
それは通常、誰も立ち入らない場所だ。
K氏は眉をひそめた。
「何だ?」
二人は音のする方へ向かった。
薄暗い区画の隅に、古い「時間同期ユニット」が置かれている。
それは数十年前のモデルで、とっくの昔に稼働停止しているはずだった。
ユニットの前面パネルにあるインジケーターが、不規則に点滅している。
「電源は落とされているはずですが…」
助手Aが恐る恐る手を伸ばした。
K氏はそれを制し、自身のポケットから小型のテスターを取り出した。
プローブをユニットの端子に当てようとした、その瞬間。
テスターのディスプレイに、測定結果がパッと表示された。
K氏と助手Aは顔を見合わせた。
「…接続する前に、結果が?」
助手Aが困惑の声を漏らした。
K氏はテスターを一度引っ込め、再度プローブを当てた。
やはり、接触する「前」に結果が表示される。
数値は「時間連続性:異常」。
その奇妙な現象に、工場の他の場所でも変化が始まった。
隣の修理ベイから、ガシャン、と金属が落ちる音が響いた。
二人がそちらを見ると、巨大なスパナが床に転がっていた。
「何か落ちましたね」助手Aが言った。
しかし、そのスパナが天井から吊るされた工具ラックから滑り落ちたのは、先ほどの「ガシャン」という音の「後」だった。
K氏は冷静に状況を分析しようとした。
「因果律の異常か…」
さらに奇妙なことが起こり始めた。
K氏が「このユニットが原因だ」と言う「前」に、助手Aは既にその言葉を聞いて、ユニットを指差していた。
彼らが何か行動を起こす「前」に、その結果が先に現れる。
作業用のロボットが、アームを動かす「前」に、すでにボルトを締めている。
工場のあちこちで、未来の事象が過去を侵食し始めたのだ。
K氏はタブレットの記録を呼び出した。
今日の作業ログには、すでに明日の日付で「時間同期ユニット修理完了」の記載があった。
彼らはまだユニットに触れてもいない。
しかし、記録はすでに「未来の事実」として存在していた。
助手Aは震える声で尋ねた。
「Kさん、僕たちは…これからどうなるんです?」
K氏はゆっくりと息を吐いた。
彼の視線は、点滅を続ける時間同期ユニットに向けられていた。
そのユニットが発する異常な波動が、ドック全体、いや、彼ら自身の認識さえも歪ませているようだった。
彼らがこの場所で何をしようとしているのか、それはすでに「決定済み」の未来であり、彼らはそれを「演じる」しかできなかった。
K氏は、未来の自分たちが「修理完了」と記録したその行為に、今から取り掛からなければならないことに気づいた。
しかし、誰が最初にこの因果の鎖を断ち切るのだろう?
彼らが修理したから未来が訪れるのか、それとも未来が訪れるから彼らが修理するのか。
そして、彼らがこの工場にいること自体が、実は、はるか未来からの「結果」としてここに「現れた」ものだと、K氏は悟った。
なぜなら、未来の彼らがこの因果律の狂いを「直そう」と決定したから、今の彼らがここに存在しているのだから。
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