逆行の庭

毎日ショートショート

K氏の朝は、完璧な秩序から始まる。

午前4時。無菌室の白い光が、彼の影を吸い込んだ。

彼は滅菌された衣をまとい、静かに室内を巡回する。

空気中の微粒子一つ許されない、絶対的な清浄。

それがK氏の仕事であり、彼の日常だった。

 

彼の耳には、規則正しい換気音だけが響く。

それは世界の喧騒から切り離された、まるで永遠のような静寂だった。

 

J教授が現れたのは、いつも通りの時間だった。

彼の足音は、この空間では異質な響きを立てた。

 

「K氏、準備は?」

J教授は、いつものように無駄なくそう言った。

彼の視線は、部屋の中央に据えられた巨大な装置に注がれている。

 

それは「エントロピー逆転装置」と名付けられていた。

宇宙の秩序を逆転させ、無秩序から秩序を生み出すという、壮大な試みだ。

 

「全て整っております、教授。」

K氏の声もまた、静寂に溶け込んだ。

 

J教授は頷き、操作パネルに向かった。

彼の指が滑らかにボタンを押す。

装置から、微かな振動が伝わってきた。

 

無菌室の壁に設置されたディスプレイが数値を示し始める。

エントロピー値が、ゆっくりと下降していく。

 

変化は、まず目に見えないものから始まった。

床の隅にわずかに溜まっていた埃の影が、まるで吸い込まれるように消えた。

完璧な白色が、さらに完璧になったように感じられた。

 

次いで、壁のわずかな汚れが、まるで時間が巻き戻るかのように消え去った。

視覚的なノイズが一つずつ、丁寧に取り除かれていく。

それは、失われた完璧さが、静かに、しかし確実に蘇る様だった。

 

K氏は息をのんだ。

部屋が、まるで生まれたばかりのキャンバスのように、無垢になっていく。

 

しかし、現象はそれだけに留まらなかった。

装置のガラス筐体の中の試験管から、わずかに混濁していた液体が澄み渡り、まるで蒸留前の状態に戻るかのようだった。

 

J教授の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

 

ディスプレイの数値は、さらに下がり続ける。

やがて、壁の素材の微細な傷が消え、室内の空気中の分子が整然と並び始めるのが、感覚として伝わってきた。

それは、かつて存在したあらゆる「乱れ」が、根本から否定されていく過程だった。

 

K氏の記憶が、曖昧になり始めた。

昨日の朝食のメニューが、その前の日の出来事と混ざり合う。

 

J教授が、ふいに顔を上げた。

 

「K氏、君は私が何者であったか、覚えているか?」

K氏は答えようとした。

だが、言葉が出ない。

彼自身の記憶も、完璧な秩序へと逆戻りしていた。

 

部屋の白い光が、さらに強まる。

それは、存在する全てを洗い流す、究極の「無」の光だった。

 

J教授の姿が、揺らぎ始めた。

彼の衣服のしわが伸び、顔の皺が消え、まるで若返るかのように見えた。

いや、若返るのではない。

彼がこの無菌室に入室する前の状態へ、さらに遡って、装置を起動する前の状態へと、彼は「存在」を巻き戻しているのだ。

 

K氏もまた、意識が遠のく。

視界が白く染まり、思考が溶けていく。

究極の秩序とは、始まりさえも消し去る純粋な空白だった。

 

そして、無菌室には、白い光だけが残った。

装置も、教授も、K氏も、全てが「無」へと回帰したのだ。

 

エントロピーは完璧に逆転し、そこには何一つ存在しなかった。

 

ただ、完璧な静寂と、未来永劫続く純粋な「可能性」だけが、宇宙に満ちていた。

なぜなら、その装置は、まだ発明されていなかったからだ。

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