タナカ氏は、週末に利用するクリーニング店「ピカピカランド」のドアを開けた。
店内は、いつも通り客でごった返していた。
白いシャツを受け取り、番号札と引き換えに代金を支払う。
店員のミドリは、終始無表情で、機械的に作業をこなしていた。
自宅に戻り、タナカ氏はさっそく受け取ったばかりのシャツに袖を通した。
清潔な綿の肌触りが心地よい。
その瞬間、奇妙な感覚が彼を襲った。
脳裏に、見知らぬ男の顔が閃いた。
「明日の会議、あのプレゼンで決まる。失敗は許されない」
強烈なプレッシャーと、胃が締め付けられるような不安感。
それは、彼の感情ではなかった。
タナカ氏はシャツを脱ぎ捨てた。
すぐに感覚は消えた。
疲れているのだろうか、そう思いながら別のシャツを着てみた。
今度は、どこかの野球場で、子供を応援する父親の熱狂的な喜びが押し寄せた。
「ホームラン!やったぞ、ケンタ!」
まるで自分がその場にいるかのような臨場感。
これが偶然ではないと悟るのに時間はかからなかった。
クリーニングに出した衣服に、以前の着用者の「記憶」が残っているのだ。
それも、感情を伴って。
タナカ氏はすぐさまピカピカランドへと引き返した。
「あの、シャツを着ると、他人の記憶が見えるんです」
店員のミドリは、瞬きもせずタナカ氏の言葉を聞いた。
「それは『記憶の染み』でございますね」
ミドリは、まるで天気の話をするかのように淡々と告げた。
「記憶の染み、ですか?」
「はい。当店の特殊な洗浄技術は、衣類に付着したあらゆるものを完全に除去しますが、ごく稀に、着用者の記憶の微粒子が繊維の奥深くに浸透し、残留することがございます。それが、ご着用時に脳波と共鳴して再生される現象です」
ミドリの説明は、淀みがなかった。
まるで、よくある質問に対する定型文のようだった。
「しかし、これは異常では?」
タナカ氏が声を荒げると、ミドリは小さく首を傾げた。
「異常ではございません。むしろ、現在では『記憶の染み』を求めるお客様が多数いらっしゃいます」
ミドリはレジの奥を指差した。
そこには、新たな受付カウンターが設けられていた。
「記憶体験サービス」と書かれた看板の下には、長蛇の列ができていた。
列の先頭では、人々が自分の着用済み衣類を差し出し、何やら記入している。
「お客様の記憶は、誰かの心を潤す資源になります。そして、お客様は新たな記憶を得る機会を手にできます」
ミドリは微笑んだ。
その微笑みは、どこか空虚で、その瞳の奥には様々な他人の感情が混じり合っているかのようだった。
タナカ氏は、手に持ったシャツを見つめた。
自分の記憶が、少しずつ薄れていくのを感じる。
もう、あのシャツなしでは、満たされない気がした。
彼は静かに、記憶体験サービスの列の最後尾に並んだ。
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