夏の終わり、ムシムシとした夜だった。
若者Kは、友人MとSに誘われ、廃寺へと向かっていた。
「本当に何もないんだろ? ただの肝試しだ」
Kはそう言ったが、MとSはにやにやと笑うばかりだった。
市内から外れた山間の道を進み、朽ちた鳥居をくぐった。
月明かりがわずかに届くそこは、静寂に包まれていた。
朽ちた本堂、倒れかけた石灯籠。古びた木々が風に揺れ、奇妙な影を地面に落とす。
Mがスマートフォンのライトをかざし、Sが震える声でつぶやいた。
「本当に、誰もいないのか…」
彼らは奥へと進んだ。
かつて参道だったであろう苔むした石段を登りきると、小さな祠があった。
祠の奥には、首の取れた石仏が鎮座している。
その石仏の台座に、彼らは目を奪われた。
無数の細い線が複雑に絡み合い、幾何学的な紋様を描いている。
青白い光を微かに放ち、まるで生きているかのように見えた。
「なんだこれ、落書きか?」
Kが指で触れると、ひやりとした冷気が指先から全身に走った。
紋様は、まるで石に直接描かれたものではなく、表面に浮かび上がっているようだった。
拭い取ろうとしても、指は空を掻くだけで、紋様はそこに在り続けた。
「気味が悪いな」
Sが後ずさりした。
紋様の光は、一瞬だけ強く瞬き、そして再び穏やかな輝きに戻った。
Kは漠然とした不快感を覚え、その場を離れようとした。
Mはまだ紋様に釘付けだったが、Sの腕を引っ張って、寺から出た。
彼らは走った。
廃寺の入り口を振り返ることなく、無我夢中で車まで駆け戻った。
車に乗ると、ようやく一息ついた。
「あれは一体…」
Kの問いに、誰も答える者はなかった。
彼らはその夜の出来事を、二度と口にしないと決めた。
数日が過ぎ、いつも通りの日常が戻ってきた。
大学へ行き、アルバイトをし、友人とくだらない話をする。
廃寺での出来事は、遠い昔の夢のようだった。
だが、Kは奇妙な違和感を覚えていた。
景色が、いつもより鮮明に見える気がする。あるいは、鮮明すぎるのかもしれない。
ある日の朝、Kは洗面台の鏡を見た。
自分の瞳に、黒い点のようなものが浮かんでいることに気づいた。
目を凝らすと、それは小さな線が複雑に絡み合った紋様だった。
廃寺で見た、あの青白い光を放つ紋様と、寸分違わぬ形だった。
指でこすっても、涙を流しても、紋様は消えない。
瞳の中に、まるで元からあったかのように、それは存在していた。
KはMとSに連絡を取った。
二人の声は沈んでいた。
Mは、自分の視界の端に「時々、奇妙な模様がちらつく」と言った。
Sは、自分の瞳も「冷たい光を放っているように見える」と告げた。
彼らは互いの目を見つめ合った。
三人の瞳には、あの青白い紋様が浮かび上がっていた。
それは、まるで透明なインクで描かれたかのように、それぞれの瞳の奥で、静かに輝いていた。
彼らの感情は次第に薄れていった。
喜びも、悲しみも、怒りも、驚きも、何も感じなくなった。
ただ、世界を、ありのままに捉えるだけになった。
彼らの瞳は、あらゆるものを写し出す鏡となり、外界の情報をただただ吸収していく。
かつて人間であったK、M、Sは、廃寺の石仏に刻まれた、消えない紋様そのものと化したのだ。
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