夜。
ミスター・エスは眠れなかった。
日々の雑事、未来への不安、過去の後悔。
脳内は情報の洪水で、休まる暇がない。
彼は深夜の街をさまよった。
古い路地裏に、小さな看板を見つけた。
「眠れない占い師」
怪しげな店だったが、なぜか惹きつけられた。
扉を開けると、中は薄暗く、アンティークの時計がいくつも壁にかかっていた。
どの時計も、時間はバラバラに止まっていた。
カウンターの奥に、女性が座っていた。
「ミスター・エス。眠れないのですね。」
女性はそう言った。
彼の名はまだ告げていない。
「どうしてそれを?」
男は驚いた。
彼女は、クスリともせず答えた。
「私は全てを知っていますから。」
彼女の目は、大きく、瞬き一つしない。
「あなたの過去、現在、そして未来。今日の夕食が半額弁当だったことも、上司の秘密の借金のことも、来週あなたが出会う運命の人の靴のサイズも。」
男は言葉を失った。
これほどまでに、個人の情報が流出しているのか、という恐ろしさもあった。
「そんなに…では、私が眠れるようになる方法は?それもご存じなのですか?」
ミスター・エスは、藁にもすがる思いで尋ねた。
彼女は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、かすかに、とても悲しげな笑みを浮かべた。
彼女はゆっくりと話し始めた。
「ええ、知っていますとも。しかし、それは私が決して得られないものです。」
占い師は、そこで一度だけ、目を閉じた。
その瞬間、彼女の顔に、この世のものとは思えないほどの安堵と静寂が訪れたように見えた。
ほんの一瞬のことだった。
そして、すぐにその大きく開かれた瞳が戻った。
「あなたの眠りの秘訣は、たった一つ。それは、あなた自身が何も知ろうとしないことです。」
ミスター・エスは困惑した。
彼は、不思議な呪文や、特別なハーブティーを期待していたのだ。
「え…?」
「ええ。私が全てを知りすぎているから眠れないように、あなたは全てを知ろうとしすぎているから眠れないのです。必要なのは、無知の幸福。」
彼女は続けた。
「そして、それは、私には決して訪れない、あなたにしか得られないものです。」
ミスター・エスは、深い思考の渦に沈んだ。
店を出て、彼は夜の道を歩いた。
いつもなら、この時も頭の中は騒がしかっただろう。
だが、彼は言われた通り、「何も知ろうとしない」ことを試みた。
空の月は丸く、雲一つない。
ただ、それだけ。
彼は自室のベッドに横になった。
目を閉じ、意識からあらゆる情報を手放した。
仕事のノルマ、友人との軋轢、明日の天気。
全てを、あえて「知らない」ことにした。
そして、彼はゆっくりと、深く、眠りに落ちていった。
朝、目覚めると、彼は驚くほど爽快だった。
ミスター・エスは理解した。
全てを知る占い師は、彼にとっての唯一の解決策が、まさに「知ろうとしないこと」だと知っていたのだ。
そしてそれは、彼女自身が永遠に享受できない、ささやかな希望であった。
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