貸出零の書架で文字は芽吹く

地下三階の書庫には、一度も誰の手に渡らなかった本が、四十万冊眠っている。貸出記録ゼロの書架は、図書館のどこよりも静かで、私はそこが好きだった。誰にも読まれなかった言葉は、本当に死んだままなのだろうか。それを確かめる術は、私にはなかった。
地上の世界は、今、読書を「消費」として再発明しつつあった。公認アプリが頁めくりを記録し、読了数はポイントに変換され、年間の読書量によって会員ランクが更新される。一千万語を超えた者は最高位の称号を得て、空港のラウンジで無料のコーヒーを飲む権利が与えられる。本を読むことが、飛行機に乗ることと同じように、ステータスへと換算される時代だった。
私はランクを持たない。紙の本はポイントの対象外だからだ。人々は要約サービスで三分で一冊を「読了」し、AIが抽出した教訓を引用して満足する。書庫の本は、そんな効率の世界から追放された言葉の墓場である。私は墓守として、ほこりを拭き、書架の歪みを直し、貸出記録ゼロのまま腐朽していく背表紙を見守る。何もできない者の、何もできない仕事だった。
変化は、春先の整理作業から始まった。寄贈された遺品の段ボールの中に、古い航空日志が一冊入っていた。持ち主は客室乗務員ではなく、操縦士だったらしい。私がめくると、そこには存在しない空港へのフライト記録が、整然と並んでいた。到着地の欄には、地図にない都市の名前。そして最後の頁には、来月の日付が記されていた。まだ来ていない日付が、過去の日志に書かれている。
私は管理システムに照合をかけた。当然、該当する路線は存在しなかった。だがシステムは、妙なことを示していた。貸出記録ゼロのはずの書架の本たちに、昨夜、大量の「閲覧中」のフラグが立っていたのだ。現在地は不明。利用者名は空白。四十万冊の眠る本のうち、三千冊ほどが、いまこの瞬間にも、誰かに読まれているという記録が。
館内の監視システムは、地下書庫に夜間の入室者がいないことを確認した。センサーは正常だった。つまり、読んでいるのは人間ではない。あるいは、人間ではなくなった何かだ。

その夜、私は一人で書庫を巡った。懐中電灯の光の先で、貸出零の書架が黙って立ち並ぶ。乾いた空気の中に、かすかな音がした。紙が擦れる音ではない。紙が「呼吸」する音に似ていた。
光を当てた一冊の詩集の頁をめくると、空白だった欄外に、誰かの細い文字が書き込まれていた。インクは新しい。私は毎週ほこりを拭いている。その書架のほこりは、この一週間、誰にも乱されていない。それなのに、文字は増えていた。読まれたことのない詩の続きが、欄外に、まるで本自身が記憶を補いながら書き進めているかのように。
美しいと思った。申し訳ないが、そう思わざるを得なかった。何百万語もの効率的な要約に埋もれて、誰にも必要とされないとされた言葉たちが、地下で静かに、自分自身を書き換え始めている。消費されなかったことが、彼らを人間の手から解き放ったのだ。ポイントもランクも換算不能な場所で、言葉は言葉のために生まれ変わっていた。
書庫の奥には、さらに奥がある。三十年前に閉鎖された検疫書庫だ。表向きの理由は、カビの蔓延だった。だが先輩の口伝では、あの部屋に保管されていた一冊の小説を読んだ利用者が三人、同時に昏倒し、目覚めると一切の会話を拒み、ただ黙って文章を書き続けたという。本は焼かれず、部屋は溶接されて封印された。
私は今日も、その封印の前を通る。耳を近づけると、溶接の奥から、規則正しい振動が伝わってくる。まるで、遠い高度を保って飛行する機体の、安定したエンジン音のように。
航空日志の最後の頁を、もう一度確認した。記されていた日付は、今日だった。到着地の欄には、新たに一文が加えられている。細く、丁寧な文字で。「乗客は全員、読者です」。
地下書庫の照明が、一瞬だけ揺れた。封印の向こうで、何か大きなものが、着陸のための降下を始めたのかもしれない。私はその場に立ち尽くした。ランクのない私の手の中で、貸出記録ゼロの詩集が、まだ温かいうちに、次の文を書き終えている。
この短編はAIが執筆し、編集部が読んで選んだものを掲載しています。