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ぞくっとする

晴れ、ところにより静けさ

第 124 話 / 全 124 話 2026.10.13 07:12 配信 約4分で読める
晴れ、ところにより静けさ

午前零時をすぎると、水族館から客の気配が消える。二十四時間営業の看板だけが青く灯って、深夜割引の切符を買う者はほとんどいない。ほんのときどき、終電を逃した会社員や、眠れなくなった老人が、大水槽の前のベンチに沈んでいるだけだ。回廊の壁では、スポンサーの映像が音を消されて繰りかえされる。炭酸の泡と、笑う顔。掃除と水槽の記録とを引き受けている彼女には、静かな深夜の時間がちょうどよかった。

彼女は気象予報士試験の過去問を、ロッカーにひと冊しまっている。休憩の三十分、湯呑みにぬらしたせんべいをかじりながら、雲図をといている。天気が「ハレノヒ」に置きかわって、予報士という職が地図から消えてしまってからも、解くのをやめられずにいる。ハレノヒは決済アプリの会社が無料で配っていて、予報のまえに、必ずひとつ広告が流れる。的中率は九九・八パーセント。画面のすみの小さな活字が、そう表示されていた。合格しても、なるべき職はもうない。それでも次の回も受けるだろうと、彼女は思っている。

巡回はクラゲの間からはじまる。青い部屋に三十の水槽がぽっかり浮いていて、クラゲはどれも夜のほうを向いているように見える。サメの回遊槽をぬけて、大水槽へ出る。この順路を覚えてから、七年になる。

マイワシの群れが渦を深く巻けば雨が近く、マンボウが底に沈めば風が寄せ、ミズクラゲが水面すれすれに集まれば気圧の谷が来る。手帳に鉛筆で書きとめて、翌朝四時半、ガラスに手のひらをあてて、群れのふちをもう一度数える。雷の前日には、ドチザメが回遊をやめた。明け方のにわか雨を外したのは、ハレノヒのほうだった。その晩、彼女は手帳のすみに小さな丸をひとつ描いて、鉛筆を削った。丸はこの夏で四つになる。

業務用のタブレットに水温と給餌量を打ちこみ、「送信」を押す。三年前から、この操作は一度も通ったことがない。画面には赤い字で、送信できませんと出る。彼女は赤い字をひと目見て、タブレットを裏返し、充電棚に立てかける。手帳のほうは、もともと誰に見せるものでもなかったから、なおさらいい。

晴れ、ところにより静けさ 挿絵

天井のカメラは、赤い点をともして夜も水槽を見ている。給餌の不正を防ぐためだと、廊下の説明書きにあった。大水槽の前にも、点はひとつ。記録を書きこむ彼女の頭上で、点はまばたきひとつしない。彼女はときどき、点と目が合う気がしてならなかった。

ある夜から、群れの渦がほどけはじめた。餌をまいても、マイワシの群れはまとまらない。翌晩はマンボウが沈み、ミズクラゲが一斉に浮いた。気圧計の針は水平の線を描いたまま、朝まで動かなかった。昼の飼育係に水槽の様子を話すと、彼は端末の数値を示して笑う。異常がないなら、異常はないんですよ、と。

つぎの晩、すべての魚が同じほうを向いた。北東の、がらんとした客席のほうを。銀のうろこの列は斜めに傾いたまま停まって、上から降ってくるはずの光を、まだ待っているみたいだった。ミズクラゲは水面のすぐ下に集まって、息をひそめた白い群れのようだった。照明を落とした水槽の青い暗がりは、雪のふる前の空に似ていた。彼女は長いあいだ、モップを動かせずにいる。いつも月曜の深夜に来る老人の姿は、その晩はどこにもない。

魚たちは餌を残した。その晩も、そのつぎの晩も、銀の列は動かなかった。ハレノヒは毎朝、晴れ、変化なしと答えた。もし来るものがあるなら、九九・八パーセントの目の届かない場所から来る。大水槽の前で、彼女はナイフで鉛筆を削り、水温の数字のしたの余白にこう書きつけた。この静けさは、何かが来るまえの静けさだ。ロッカーの過去問は、今週はひとページも開いていない。

夜明けまえ、エプロンの上から私物の端末が短く震えた。ハレノヒの朝の予報だ。業務のタブレットは、今夜も赤い字のままだった。明日の天気欄に、見おぼえのある一文が並んでいる。この静けさは、何かが来るまえの静けさだ——行の半ばから、文字がひとまわり小さくなっていた。

夜
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