返却棚の向こうに夜明け

深夜二時、仕分けラインは誰の命令でもなく震えていた。天井は高く、蛍光灯の白さが霜みたいに床にこびりつき、ベルトの摩擦音だけが規則正しく牙を剥いていた。私は夜勤勤務の仕分け手で、名前より番号で呼ばれる。番号は二年前、借金の保証人に名前を貸した週に暗くなった。
箱は次々に来る。産地、宛名、バーコード、重量。スキャナーが赤く瞬くたび、画面の隅で「適否」という小さな文字が産まれる。通った箱は緑、保留は黄、返却は黒。黒は滲む。油性ペンではなく、ラベルの繊維の奥から、夜の汁のように滲む。私は手袋の指先で箱の角を撫でる。それは誰かの失敗を運び、誰かの機嫌を守り、誰かの部屋に届くはずだった温もりを、返却棚へ逆走させる。
倉庫の外では渡船が欠航していた。埠頭の放送は風に削られ、島へ帰るはずの小包だけが溜まる。ラーメン屋の匂いが塀の穴から逃げてきて、濃厚な豚骨と醤油の底に、ほんの少しだけ蒜の爪痕を残す。休憩の八分間、若い契約社員が紙コップの汁を啜りながら画面を見ていた。彼の「借用余白」が今日も減っている。減るたびに、明日のシフトが短くなる。文句は言わない。言えない。黙って麺を啜る音だけが、貧乏の形を教えてくれる。
私は世界の仕組みを恨んでいると言いたい。でも本当は、恨みの鋭さより、眺めの良さを覚えてしまう。ベルトが曲がる角で、黒の箱だけが少し遅れ、宙に浮くような一瞬がある。そこに積み上げられた宛名は、都会の高層階、離島の病院、閉店した美容院、初孫へと繋がるはずの空室。全部が同じ速度で落ちる。全部が同じ音で割れるわけではない。資本主義という言葉は大袈裟で、私の手元にはただ、返却理由の一行が回る。「支払い歴に要確認」。要確認。誰が、何を、いつ。
朝が近づくと、ラインの向こうで有象無象の箱に朝靄が乗る。夜勤の終わりは美しい。終わりではなく、誰かに強請られる前の静けさだ。私は野心がある。大きなことをしたいのではない。この棚の奥から、返却に回された荷物を勝手に宛先へ戻し、記録だけを残す。余白のある者のために余白を削り、削られた者の沈黙を返す。一度でいい。黒い点が一つ、線路から外れて、海のない夜の底へ落ちる音を聞きたい。
その夜、バーコードのない木箱が混ざった。重い。蓋の隙間から古い紙の匂いがした。渡船会社の封筒、家系の店で使われた箸袋、信用機関の早期通知、引っ越しの挨拶状が束になっている。宛名欄には、宛先があり、差出人がなかった。スキャナーは拒絶し、画面が初めて「要人判定」と出す。要人。私の番号では判定できない。私の人生では扱えない。木箱はベルトに置き去りにされ、周囲の黒い点がにじみ始めた。滲んだ黒が互いに繋がり、返却棚ではなく、出荷側へ流れてゆく。
誰も止めない。止める者は片付けられる。私も手を伸ばしかけた。手袋の先が木箱に触れた瞬間、指先に朝の冷たさが戻り、遠くでラーメン屋の鍋が鳴った。空腹は正直で、理想は不正直だ。私は箱を押し込めず、流れに任せた。任せることも、一種の犯行だと知りながら。ラインの端で木箱は出口へ消え、空になった返却棚だけがぽっかり開いていた。開いた棚は、誰かに見せるための口ではなく、世界が誤嚥した黒い点の嚥下腔に見えた。
明け方、管理者が来て、異常はなかったことにされた。記録は補正され、木箱は誤配として別倉庫へ送られた。私の番号は黄に変わった。明日のシフトは削られるだろう。それでも夜が明けると、埠頭の霧の中を最初のトラックが出て行く。積荷には黒い点が混じっていないか、確かめようとする前に、画面が私に問いかける。「次荷物を確認しますか」。私は指を止める。止めた先で、返却棚の向こうから小さな崩落音がして、誰の責任でもない夜明けが、箱の山の上に静かに積もり始めていた。