タナカはいつも通り、駅前の居酒屋で安い酒を飲んでいた。
時刻は午後10時を少し過ぎた頃。
家に帰ると、アパートの自室のドアの横に、見慣れない扉が一つ増えていた。
それは古びた木製の扉で、表面は滑らかに磨かれている。
隙間からは、微かに淡い光が漏れていた。
タナカは訝しみながらも、その奇妙な光景に心を惹かれた。
恐る恐る手を伸ばし、重い取っ手を捻る。
ギーッという鈍い音と共に扉が開いた。
そこは狭い空間で、正面には大きなディスプレイ、手元には簡素な操作盤があった。
ディスプレイには文字が浮かび上がっていた。
「ようこそ、人生体験ルームへ。お好きな人生をお選びください。」
タナカは目を疑った。
操作盤には「セレブ」「芸術家」「探検家」「賢者」といった選択肢が並んでいた。
好奇心に駆られ、タナカは「セレブ」と書かれたボタンを押した。
途端、視界が真っ白になる。
次に意識を取り戻したとき、タナカは豪華なリムジンの中にいた。
隣には美しい女性が微笑み、手には最高級のシャンパン。
目の前には無限の富と名声が広がっていた。
タナカは歓喜した。
一時間の体験を終え、元の部屋に戻されたタナカは興奮が冷めやらない。
自分の部屋は、先ほどの体験とは比べるべくもない貧相なものだった。
再び扉をくぐり、「芸術家」の人生を選んだ。
世界的に評価される名誉ある生涯。
次に「探検家」。
人類未踏の地を征服し、歴史に名を刻む冒険。
どの人生も、タナカの現実とはかけ離れた、輝かしいものばかりだった。
タナカは自分の人生が、いかに退屈で無価値なものかを知った。
もはや現実に戻る意味を見出せない。
夜な夜な扉をくぐり、他者の輝かしい人生を貪るようになった。
ある夜、タナカは操作盤に見慣れないボタンを見つけた。
「永住」と書かれている。
その横には注意書きがあった。「永住を選択すると、現在の人生は消滅します。」
タナカは躊躇しなかった。
「永住」ボタンを押し、最高の人生を選んだ。
視界が再び白に染まる。
その瞬間、タナカのアパートの一室に、また一人、見知らぬ男が帰宅した。
男は部屋のドアの横に、見慣れない扉が一つ増えていることに気づいた。
そして、その扉から微かに淡い光が漏れているのを見た。
男は、その扉に手を伸ばした。
タナカの人生は、次の誰かの「人生体験」として表示される側になったのだ。
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