アキラは毎朝、地下にある会社の自転車置き場へ向かった。
蛍光灯が薄暗く、埃っぽいコンクリートの壁が並ぶ、単調な場所だった。
自転車を所定の場所に停め、彼はエレベーターでオフィスへと上がっていく。
それは彼の日々のルーティンの一部だった。
ある日の朝、彼は壁に奇妙な落書きを見つけた。
「もっとお金がほしい」
誰かの悪戯だろうと思い、アキラは気にせずに通り過ぎた。
しかし数日後、同じ壁に「係長、早く辞めないかな」と書かれているのを見つけた。
そしてその週の終わり、係長が突然の退職を発表した。
偶然にしては出来すぎている。
アキラは軽い好奇心から、小さな字で壁の隅に書き加えた。
「今日中に新しい腕時計が手に入りますように」
彼は特別な期待もせずにその場を後にした。
しかしその日の午後、同僚のミキが新しい腕時計を自慢してきた。
彼女は懸賞で当たったのだと言う。
その時計は、アキラが具体的にイメージしていたものと全く同じ形をしていた。
アキラはぞっとした。
翌日、アキラは再度自転車置き場へ向かい、壁を注意深く見た。
「あのプレゼン、失敗しろ」
「今日のランチは高級ステーキがいい」
人々が書き殴ったであろう言葉の数々。
アキラは確信した。
この自転車置き場では、言葉が現実になるのだ。
彼はミキにそのことを打ち明けた。
「馬鹿なこと言わないでよ」
ミキは笑い飛ばしたが、アキラの真剣な顔を見て、半信半疑で壁に書き始めた。
「来月、海外旅行に行けますように」
そして実際に、彼女の家族が突如として海外旅行の招待券に当選した。
旅行先は、ミキが漠然と願っていた国だった。
噂は瞬く間に広がった。
地下の自転車置き場は、人々の欲望と願いを叶える「聖地」と化した。
壁は文字で埋め尽くされた。
「美人な彼女がほしい」
「宝くじ当たれ」
「交通違反の罰金が帳消しになりますように」
現実世界では、落書きされた通りの現象が次々と発生した。
街には望まない形で恋人ができた者、突然の富を得た者、そして理不尽な不幸に見舞われる者が溢れた。
社会は混乱し、一部では暴動も起きた。
政府は事態を重く見て、例の自転車置き場を閉鎖した。
厳重な警戒態勢が敷かれ、関係者以外は立ち入り禁止となった。
「奇妙な電磁波が確認された」
「未知の物質が検出された」
様々な憶測が飛び交ったが、真相は闇の中だった。
数ヶ月後、自転車置き場はひっそりと再開された。
以前のような「願い事の壁」としては機能しないとされていた。
アキラは一度だけ、こっそりと潜入してみた。
壁は綺麗に塗り直され、何の落書きもない。
しかし、一番奥の、誰にも見向きもされないような場所に、たった一つだけ、新しい文字が書かれていた。
「この場所が永遠に稼働し続けろ」
その文字の下には、かすれた字で「係員より」と書かれていた。
アキラは凍り付いた。
言葉を現実化する代償として、願いをかけた者は最も大切な何かを失うという噂が、彼の脳裏をよぎった。
アキラは自分の腕を見た。
新しい腕時計は、今もそこに煌めいていた。
しかし彼は、以前のように時間を気にすることなく、ただ漫然と時を過ごすようになっていた。
そして、ミキは海外旅行から帰ってきて以来、なぜかどんな旅番組にも興味を示さなくなった。
アキラは自転車を手に取った。
ふと、彼は気づいた。
以前はあんなに心地よかったはずの、自転車に乗る喜びを、彼自身が失っていることに。
係員は毎日、誰もいない自転車置き場で、壁をじっと見つめていた。
彼の隣には、新しい、そして壊れることのない、ピカピカの自転車が常に置かれている。
誰かが壁に書いた「係員に最高の自転車を」という願いが現実化したものだった。
だが、その係員は一度もその自転車に乗ることはなかった。
彼は自転車置き場から一歩も外に出ることができないのだ。
永遠に、この「言葉を現実化する場所」の番人として、閉じ込められていた。
そして、壁に書かれた自分の願いを見つめ、静かに呟いた。
「これで、誰も私を、邪魔しない」
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