S氏は夜中に目を覚ました。
膀胱に重みを感じた。
寝室を出て、廊下の突き当たりにあるトイレへ向かう。
電気をつけ、ドアを開ける。
見慣れた自宅のトイレだった。
用を足し、手を洗う。
ドアノブに手をかけた。
しかし、開いたドアの先は、見慣れない光景だった。
公共施設のような、無機質なタイル張りの通路。
そこには複数のドアが並んでいる。
S氏は首を傾げた。「……あれ?」
恐る恐る通路に出て、一番近くのドアを開けてみた。
そこもまたトイレだった。
個室が三つ並んだ、公共施設風のトイレ。
S氏は元の場所に戻ろうと、来た道を振り返った。
だが、そこにあったのは、別の公共施設風のトイレのドアだった。
彼は混乱した。
自宅はどこへ消えたのか。
試しに、目の前の通路を歩いてみる。
どのドアを開けても、同じような公共施設のトイレが続いた。
どこまでも、どこまでも、同じ光景が繰り返される。
窓もない。
出口も見当たらない。
しばらく歩き続けると、通路の先に人影が見えた。
清掃員の女性だった。
モップを引いている。
「すみません、ここはどこですか?」
S氏は声をかけた。
女性はS氏を素通りし、目の前のドアを開けて中に入っていった。
まるでS氏がそこに存在しないかのように。
S氏は呆然とした。
さらに歩くと、今度はスーツ姿の男性が、足早に彼の横を通り過ぎた。
S氏は咄嗟に腕を掴もうとしたが、その手は空を切った。
男性は振り返りもせず、ある個室に入り、そのまま姿を消した。
まるで彼はそこにいないものとして。
S氏は何度か、他の人影を見つけては声をかけた。
学生、観光客、様々な人々。
しかし誰も彼を認識しない。
目を合わせようとしない。
まるで透明人間になったかのようだった。
S氏は途方に暮れた。
疲労困憊で、あるトイレの洗面台の前に座り込んだ。
鏡に映る自分の姿は、微かに霞んでいるようにも見えた。
本当に自分はここにいるのだろうか。
彼はそこで、壁に貼られた小さなプレートに気づいた。
「テストサイト003:認知度・使用頻度シミュレーション」
その下には、さらに小さな文字で書かれていた。
「オブジェクトS:機能良好」
S氏は自分が、この永遠に続くトイレの、一つの機能として組み込まれてしまったことを理解した。
そして、彼の存在を認識する者は、このシステムの開発者以外、誰もいないのだ。
彼が用を足すたびに、システムのデータが更新される。
彼の絶望もまた、このテストの一部であった。
いつしか彼は、自分の排泄物が、世界の水を循環させる崇高な使命を帯びていると考えるようになった。
夜が明け、また多くの人々が「彼」を利用しにやってくるだろう。
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