タナカは今日も残業だった。
深夜のオフィス街を抜け、自宅への道を急ぐ。
ふと、見慣れない路地裏に光が漏れているのを見つけた。
薄暗い中に、簡素な屋台が一軒。
提灯には「未来観測」とだけ、達筆な文字で書かれている。
好奇心に誘われ、タナカは屋台に近づいた。
店主は背が高く、顔には影が落ちていて表情が読み取れない。
まるで蝋人形のようだった。
「いかがですか。未来、ご覧になりますか?」
店主の声は抑揚がなく、静かに響いた。
タナカは半信半疑ながら、差し出された椅子に腰を下ろした。
店主は小さなガラスの球を差し出した。
透明な球の中には、微かに光が揺らめいている。
タナカが恐る恐る覗き込むと、鮮明な映像が脳裏に浮かんだ。
翌朝、彼が朝食のパンを焦がし、その煙が火災報知器を鳴らす光景。
そして、慌てて窓を開け、近所の住人の視線を浴びる自分の姿。
他愛もない、しかし確実に起こりそうな未来だった。
料金は「あなたの気づき」だと言われた。
タナカは一言お礼を言い、屋台を後にした。
翌朝、彼は目覚まし時計を30分早くセットし、ゆっくりとパンを焼いた。
報知器が鳴ることはなかった。
タナカは魅了された。
それから毎晩、屋台に立ち寄るのが日課となった。
小さな失敗や、ちょっとした不運を、事前に知って回避する。
「上司から書類の不備を指摘される」未来を見れば、彼は念入りに確認した。
「通勤電車で痴漢に間違われる」未来を見れば、彼はあえて一駅手前で降りて歩いた。
彼の生活は劇的に改善された。
ストレスは減り、効率は上がった。
まるで、人生を完璧に操縦しているかのような感覚だった。
彼の頭の中では、常に未来の予測と回避策が構築されていた。
ある日の晩、屋台を訪れたタナカは、いつものようにガラスの球を覗き込んだ。
しかし、そこに映し出されたのは、いつもと違う光景だった。
深夜のオフィス街を、残業を終えた彼自身が歩いている。
そして、見慣れない路地裏に光が漏れているのを見つける。
提灯には「未来観測」の文字。
その時、店主が口を開いた。
「おめでとうございます。あなたの未来を観測し続けるという未来は、これで成就しました」
タナカは茫然とした。
彼がこれまでの人生で見て、そして回避してきた未来は、全てこの屋台を訪れ、「未来を観測する」という彼の行動を誘発するためだけに存在していたのだ。
ガラスの球の中のタナカは、好奇心に誘われ、屋台に近づいていた。
それは、終わりなきループの始まりだった。
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