午前五時。
商店街のシャッターが開く。
一番乗りは、いつも青果店のタナカだった。
彼は慣れた手つきで、木箱いっぱいのリンゴを店の前へ運び出す。
隣のパン屋、ヤマダも開店準備を始める。
焼き立てのパンの香りが、まだ眠る街に静かに広がる。
その向かいでは、喫茶店のサトウがコーヒー豆を挽く音を響かせていた。
「おはようございます、タナカさん。」
ヤマダが小さく声をかけた。
タナカはリンゴの山から顔を上げ、小さく会釈する。
「おはよう、ヤマダさん。今日もいい匂いですね。」
いつもの朝の光景だった。
しかし、その日の朝は、わずかに違っていた。
タナカがリンゴを一つ手に取り、それを棚の空いたスペースに置こうとした、まさにその瞬間だった。
リンゴの赤が、目の前でゆっくりと、極端なまでにゆっくりと、棚へ近づいていく。
指先から離れる感触、重力がリンゴを引く様子。
それが、永遠にも思えるほど引き延ばされる。
ヤマダがオーブンから取り出したバゲットも、湯気を立てながら異常な速度で空中に静止しているようだった。
香りが広がるのも、数分、いや、数時間かけてようやく鼻腔に届くような感覚。
サトウのドリップコーヒーは、一滴がカップに落ちるまでに、まるで時が止まったかのように感じられた。
彼らは顔を見合わせた。
しかし、動揺はなかった。
ただ、じっと、目の前の現象を見つめている。
タナカはリンゴが棚に収まるのを待った。
その間にも、商店街の光はゆっくりと増し、影は異常なほど緩やかに姿を変えていく。
ヤマダは、ようやくパンを台に乗せると、ゆっくりと息を吐いた。
サトウのカップには、ようやくコーヒーが満たされた。
彼らの動作は、まるでスローモーション映画のようだった。
しかし、それは彼らにとっての日常の速度だった。
なぜなら、彼らはこの「一瞬」を何千回、何万回と繰り返してきたからだ。
「今日も、始まりましたね。」
タナカの声は、風に乗ってゆっくりとヤマダの耳に届いた。
ヤマダは微笑み、パンを一つタナカの店の方へ向けた。
「ええ、始まりました。」
その「始まり」が、彼らにとっては、世界の全てであり、唯一の終わりだった。
彼らは、永遠に続くこの「始まりの商店街」の、わずか数秒間の記憶の中で、生き続けていた。
そして、彼らが「おはようございます」と声を交わし終える頃には、再び、シャッターが閉まる「深夜」へと時間は戻っていた。
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