S氏は、仕事の波に呑み込まれ、心身ともに疲弊していた。
夜。
冷たい風が吹き荒れる路地裏を、彼はただ、うつむいて歩いていた。
ふと、薄明かりが漏れる一軒のバーが目に留まった。
「時の止まり木」。
古びた木製の看板に、そう記されている。
吸い寄せられるように、彼はドアを開けた。
カラン、と小さな鈴の音が鳴る。
店内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
温かいオレンジ色の照明。
カウンターの奥には、白髪混じりのマスター、ムラタが立っている。
古風なジャズが、かすかに流れていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
ムラタの声は、深く、穏やかだった。
S氏はカウンターの一角に座り、琥珀色の液体を注文した。
隣には、同じく静かにグラスを傾ける常連客らしき男、アキラがいる。
S氏はふと、壁にかかった古時計に目をやった。
針は、午前0時を少し過ぎたあたりで止まっている。
「この時計、止まっているようですね」
S氏は、何気なくムラタに問いかけた。
ムラタはグラスを磨きながら、にこやかに答えた。
「ええ。この店では、時間というものは、少々意味合いが違うのですよ」
アキラも、口元に薄く笑みを浮かべた。
S氏は、その言葉の意味を深く考えることはしなかった。
ただ、この場所の静けさと温かさが、彼の心をゆっくりと溶かしていくのを感じていた。
外の時間がどうなっていようと、ここでは関係ない。
翌日も、その翌日も、S氏は「時の止まり木」を訪れた。
何度訪れても、時計の針は変わらず午前0時を指している。
ムラタはいつも穏やかに迎え入れ、アキラは決まって同じジョークを口にした。
S氏が、今日が何曜日なのか、あるいは外でどれほどの時間が過ぎたのかを問うことはなかった。
「永遠」のような時間が、心地よかった。
過去の後悔も、未来への不安も、ここでは意味をなさない。
ただ「今」だけが、ゆるやかに存在していた。
彼は、この店で過ごすひとときが、何よりも大切になった。
この「永遠」の中に、ずっといられればと願うようになった。
ある夜のこと。
S氏がいつものようにグラスを傾けていると、ムラタが静かにS氏の瞳を覗き込んだ。
「Sさん」
ムラタの声が、いつもより、かすかに震えているように聞こえた。
「あなたは、まだここに『永遠』を望みますか?」
S氏は、迷うことなく答えた。
「はい。望みます」
ムラタは、ゆっくりと微笑んだ。
そして、グラスを置いた。
「では、お望み通り。どうぞ、永遠に」
その言葉を聞いた瞬間、S氏の身体が、まるでガラスのように硬直するのを感じた。
バーの照明が、ゆっくりと薄れていく。
目の前のカウンターも、ムラタも、アキラも、一枚の絵のように静止していた。
S氏は、自分が椅子に座ったまま、まったく動けないことに気づいた。
彼の意識だけが、その止まった時間の中に閉じ込められている。
そして、S氏の体は、バーの片隅に、いつからか置かれていた埃をかぶった古いマネキンの一つに、そっくりだった。
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