ミスター・サトウは窓辺で新聞を読んでいた。
さんさんと降り注ぐ陽光が、彼の顔を明るく照らしていた。
ここは『陽だまりの家』。老人たちが穏やかに過ごすための施設だった。
隣のソファでは、ミセス・タナカが編み物に興じている。
「そろそろ昼食の時間ですわね」
ミセス・タナカが優雅につぶやいた。
ミスター・サトウは壁の時計に目をやった。
針は午前9時を指している。
「おかしいな、まだ午前中ではないか」
彼は首を傾げた。
「あら、本当に」
ミセス・タナカも自分の腕時計を確認する。
「つい先ほど朝食を食べたばかりだと思っていましたのに、もう夕方かしらと思っていたのよ。でも、時計は午前9時。奇妙ですわね」
しばらくして、介護士Aが食堂への案内を始めた。
「皆様、お元気ですか? まだ午前中ですが、本日の昼食は特別に早めのご提供となります」
介護士Aはにこやかに言った。
住民たちは特に疑問を抱くことなく、食堂へと向かった。
翌日も奇妙な出来事は続いた。
朝食を終えたばかりのミスター・サトウが、ふと時計を見ると、午後3時を指していた。
午後の体操の時間だ。
「昨日は午前中が昼食、今日は朝食直後が午後か」
彼は独りごちた。
他の住民たちも同様の時間のずれを経験していたが、誰もが困惑しながらも、大きな混乱はなかった。
時間が経つにつれ、この時間のずれは『陽だまりの家』の日常となった。
眠りたいと思えば、いつの間にか夜になり、目覚めたいと思えば、まばゆい朝の光が差し込む。
お腹が空けば、すぐに昼食や夕食が運ばれてきた。
退屈を感じれば、時間が加速して次のイベントが始まった。
職員たちも、この現象に対応するため、マニュアルを改訂した。
「時間の流れは、ご利用者様の快適さに合わせて調整されます」
新しいマニュアルにはそう記されていた。
ミスター・サトウは、以前よりも活発になったように見えた。
読みたい本があればすぐに夜になり、疲れればすぐに眠りにつけた。
「ここはまさに理想郷だ。誰もが望むままに生きられる」
彼は満足げに笑った。
ミセス・タナカも常に朗らかで、編み物の完成も驚くほど早かった。
彼らは、この奇妙だが心地よい時間の流れに完全に順応していた。
いや、順応させられていた、というべきか。
ある日、介護士Aが記録室で古いファイルを整理していた。
『陽だまりの家』の設立当初の資料だ。
そこに記されていたのは、『被験者脳波連動型時間流動システム』という文字だった。
そのシステムは、入居者の脳波を常に測定し、彼らが最も幸福を感じる状態を維持するために、施設内の時間を自由に操作することを可能にしていた。
外部の時間の流れからは完全に切り離され、彼らは永遠に『都合の良い時間』の中で、満足しきった表情で過ごし続ける。
彼らはもはや、『陽だまりの家』という名の巨大な装置の中で、夢を見続ける存在だった。
そしてその夢が続く限り、彼らの意識は永遠に解放されることはなかった。
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