ミスター・Kは疲れていた。
一日中、数字と向き合う単調な作業。
感情を殺し、効率だけを追求する日々。
夕闇が窓を染め始める頃、彼はようやく自宅のドアを開けた。
疲労は日毎に蓄積され、肩には鉛のような重さがのしかかっていた。
夕食はインスタント食品で済ませた。
ソファに体を沈め、無気力にテレビのニュースに目を通す。
そして、就寝前の最後の儀式。
ミスター・Kは重い足取りでトイレへ向かった。
一日の終わり。
全てを流し去る、ささやかな解放の時間。
便座に座り、用を足す。
彼はいつも通り、無意識にレバーを引いた。
ゴオォォ、と水が渦巻く、聞き慣れた音。
その瞬間、彼の視界に異変が起きた。
水流が、まるで生き物のように、脈動する光の帯となって見えたのだ。
透明な水の中に、微細な色粒が瞬き、形を変えながら吸い込まれていく。
それは一瞬のことで、すぐに消えた。
「疲れているな。」
ミスター・Kは、ただの目の錯覚だと自分に言い聞かせた。
だが、翌日も、その翌日も、同じ現象が起こった。
光は日を追うごとに鮮明になり、色粒は複雑な模様を描くようになった。
ある日は鮮やかな赤と青が混じり合い、まるで怒りや悲しみが溶解していくようだった。
泡となって弾ける光景は、誰かの絶望のようにも見えた。
またある日は、淡い緑と黄色が優しく漂い、穏やかな幸福が流れ去るように見えた。
小さな、壊れやすい希望の断片。
そして、音もまた、ただの水流ではなかった。
微かなざわめき。
それは聞き取れない、しかし確かに存在する、無数の囁き声が重なり合っているようだった。
過去の、現在進行形の、そして未来の言葉が、音として、そして光として、彼の目の前で分解されていく。
ミスター・Kは興味を抱いた。
彼はトイレの専門家ではない。
だが、この現象が自分だけのものとは思えなかった。
試しに、彼は自宅の蛇口をひねってみた。
水は透明なまま、何の変哲もない。
シンクの排水口を覗き込むが、やはりただの排水管だ。
やはり、トイレの排水だけが特別だった。
彼は図書館で「共感覚」に関する本を読み漁った。
しかし、どれも彼の体験とは異なった。
これは、彼自身の感覚ではない。
まるで、外部から送られてくる情報のようだった。
ある日、彼は職場の友人のミスター・Sにそれとなく尋ねた。
「最近、君の家のトイレ、何か変わったこと、ないかね?」
ミスター・Sは訝しげな顔で首を傾げた。
「別に? 便器がたまに詰まるくらいかな。それより、Kさん、最近顔色が悪いよ。働きすぎじゃないか?」
ミスター・Kはそれ以上話さなかった。
おそらく、この現象を認識できるのは自分だけなのだろう。
あるいは、皆、無意識のうちにそれを視ていながら、気づかないふりをしているのかもしれない。
あるいは、気づいてはいるが、生活に支障がない限り、誰も語ろうとしないのかもしれない。
彼は毎晩、儀式のようにトイレの音と光を観察した。
それはまるで、世界の感情の残骸が、下水管という集合的無意識の回路を流れゆく様だった。
人々の喜び、悲しみ、怒り、諦め、嫉妬、怠惰。
全てが形を変え、混じり合い、濁流となって消え去る。
彼は、自分もまた、その集合の一部であるという奇妙な一体感に包まれた。
そして、少しずつ、その流れの中に、見慣れた光景や、聞き覚えのある声の断片を見つけるようになった。
それは、彼が今日一日、街ですれ違った人々や、ニュースで見た出来事の「残り香」のようなものだった。
彼は世界のあらゆるものの「排出物」を見ていたのだ。
数週間が過ぎた。
ミスター・Kは仕事に集中できなくなった。
日中の会議中も、顧客との会話中も、彼の頭の中には夜の光景がちらつく。
彼は疲弊していった。
感情を殺すことは得意だったが、これでは感情の残骸を毎日見せつけられる。
他者の、そして世界の、生々しい感情の排出物。
それは彼の心に、鉛のように重く沈殿していった。
彼はもはや、自分自身の感情を流し去ることさえできなくなっていた。
そして、ある夕方。
いつも通り、彼はトイレのレバーを引いた。
ゴオォォ。
水が渦巻く。
しかし、今回は違った。
色はくすみ、音はざわめきではなく、虚ろで空虚な響きになった。
そして、流れ去る光の中に、彼は見た。
誰かの顔。
しかしそれは、彼の疲れきった顔だった。
彼の今日一日の、何も残らなかった感情の塊。
それは、他の誰のものでもない、彼の「排出」だった。
全てを使い果たし、形を失い、ただの空虚となって、世界の管の底へと、静かに消えていく。
ミスター・Kはただ、そこに座っていた。
そして、その夜、彼は初めて知った。
世界の終末は、大きな爆発や災害ではなく。
小さな便器の中で、毎日静かに、魂が流され、空っぽになっていくことなのだと。
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