K氏は締め切りに追われていた。
書斎の窓から見える夕焼けは、いつもより赤く、不気味なほど鮮やかだった。
原稿用紙は白いままだ。
物語は一向に進まない。
彼は窓に近づいた。
ガラスの向こうには、見慣れない光景が広がっていた。
公園の木々の間に、虹色のゆらめきがあった。
それは薄い膜のようにも、濃い霞のようにも見えた。
「なんだ、あれは」
K氏は目を凝らした。
それは公園のベンチや滑り台の輪郭をぼやけさせ、まるで異次元への入口のようだった。
彼は長年、現実と虚構の境界をテーマにした小説を書いてきた。
まさに今、目の前にその境界が現れたのだと直感した。
ふと、そのゆらめきが彼を呼んでいるような気がした。
書けない苦しみから逃れたい。
そう思った瞬間、K氏は玄関のドアを開け、外へ出た。
公園は静まり返っていた。
他の誰の目にも、あのゆらめきは映っていないようだった。
K氏は一歩ずつ、その虹色の膜に近づいた。
近づくほどに、膜から物悲しい旋律のようなものが聞こえてくる気がした。
それは遠い過去の記憶、あるいはまだ見ぬ未来への予感のような音だった。
彼は右手を差し入れた。
手の甲からじんわりとした冷たさが伝わってくる。
だが、痛みはなかった。
やがて、腕が、肩が、胴体が、虹色の膜の中に吸い込まれていった。
自分の体が、透き通るように消えていくのを感じた。
まるで、物語の登場人物が、その世界に溶け込んでいくかのようだった。
K氏の意識は、薄れていった。
最後に残ったのは、彼が書きたかった物語の、始まりの一文だった。
「ある夕暮れ、一人の作家が、世界の境界に立っていた……」
K氏の姿が完全に消えてから、数分後。
編集者のヨシダが、K氏の自宅を訪れた。
「K先生、締め切りですよ!」
ドアは開いていた。
ヨシダは書斎に入ったが、K氏の姿はなかった。
机の上には、まだ何も書かれていない原稿用紙が、夕焼けに照らされて白いまま残されていた。
ヨシダはため息をついた。
「まったく、いつもこうだ。
急にどこかへ消えてしまう。」
彼は白い原稿用紙を手に取り、窓の外の公園に目をやった。
そこには何も特別なものはなかった。
その日、K氏の物語は、彼自身が、書かれる前の登場人物として、終わりのない旅に出たのだった。
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