朝の通勤時間帯。
K氏は満員電車に揺られていた。
いつものことだ。
吊革を握る手には、今日の企画書を終えるための重圧がずっしりと乗っている。
彼の頭の中は、いかに効率よく仕事をこなし、昇進し、より多く稼ぐかで占められていた。
それが価値であり、人生の目的だと信じていた。
列車は古いトンネルに入った。
照明が薄暗くなり、窓の外は漆黒になった。
数秒の間、奇妙な振動が車両全体を包み込んだ。
不快な、だがどこか懐かしいような低い唸り。
やがて光が戻り、列車はトンネルを抜けた。
車内の風景は変わっていなかった。
しかし、何か違っていた。
K氏は隣に立つ青年を見た。
青年は真剣な顔で、ポケットから皺くちゃのレシートを取り出した。
そして、向かいに座る老婦人に差し出した。
老婦人は喜びの表情を浮かべ、大切そうにそれを受け取り、代わりに自らの指にはめていた高価そうな指輪を青年に手渡した。
青年は指輪を一瞥し、軽く手のひらで弄んだ後、ポケットに無造作に放り込んだ。
まるで石ころでも扱うように。
K氏は目を凝らした。
別の場所では、中年男性が自分の革製ブリーフケースを、向かいに立つOLが持っていた使用済みのマスクと交換していた。
OLはブリーフケースを受け取ると、すぐに網棚に投げ上げた。
そして、大事そうにマスクを畳んで、丁寧に財布にしまい込んだ。
車内では、そのような「取引」があちこちで行われていた。
誰もが真剣で、交換された品々に心からの満足を覚えているようだった。
高価なものが軽んじられ、価値がないはずのものが熱烈に求められている。
K氏は混乱した。
これは夢か?
それとも集団幻覚か?
K氏は試しに、自分の高級腕時計を外した。
隣に立つ男に差し出す。
「これ、いりませんか?」
男はK氏の腕時計を一瞥し、鼻で笑った。
「そんなもの、何の価値があるんですか?」
男はそう言うと、足元に落ちていた小さな、ひび割れた小石を拾い上げた。
「それより、これですよ。この完璧な不規則性。自然の芸術品だ。」
男は小石をK氏に見せびらかすように掲げた。
K氏は呆然とした。
その時、K氏の視線が、床の隅に転がっていた潰れたペットボトルキャップに吸い寄せられた。
それは無色透明で、何の変哲もない、ただのゴミだ。
しかし、K氏の胸の中に、今まで感じたことのない強い衝動が湧き上がった。
どうしてもそれが欲しい。
人生の全てを賭けても惜しくないほどの、途方もない価値をそのキャップに感じたのだ。
彼は屈み込み、震える手でそれを拾い上げた。
掌に乗せると、温かく、生きているかのように感じられた。
この小さな存在が、彼の心をこれほど満たしたのは初めてだった。
やがて、列車は彼の最寄り駅に滑り込んだ。
扉が開く。
K氏はペットボトルキャップをしっかりと握りしめ、プラットフォームに降り立った。
駅は、いつものように混雑していた。
人々は足早に通り過ぎる。
その顔には、成功への渇望、効率への執着が満ちていた。
K氏は彼らを見た。
そして、自分の手のひらのキャップに目を落とした。
彼は微笑んだ。
心からの、穏やかな微笑みだった。
ようやく、真の目的地にたどり着いたのだ。
彼の視界で、出発した列車が、ガラスの窓に、かつての彼の姿を映しながら、遠ざかっていった。
それは、何も持たず、ただ空虚な価値を追い求める幻影だった。
K氏には、もうそれが滑稽にしか見えなかった。
彼は、彼自身の真の宝物を手にしていた。
その日、K氏の人生は、文字通り、根底からひっくり返った。
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