宛先の消えていく標高

標高千六百メートルの峠に、集配所がひとつある。窓の外はいつも、雲より上だった。夜明け前、平地のハブからトラックが登ってきて、荷を降ろしていく。それを彼は軽ワゴンに積み替え、三つの集落と、ひとつの診療所へ配る。彼は集配所に住んでいる。雪の音だけの冬と、雪解けの水が棚を濡らす春がある。晴れた朝には、雲海が窓の下いっぱいに広がり、水平線のように動かない。
診療所に手術ロボットが入ったのは、三年前の夏だった。前の月に、最後の医師が引っ越した。段ボールは六つ。診察台と、待合室の長椅子は、山に残された。翌月、四本の腕が木箱で届いた。執刀医は二百キロ下の都市にいて、光ファイバーで山の腕を動かす。それ以来、彼が届けるのは滅菌パックと、メスのカートリッジと、整備の部品になった。
それまでの診療所に、彼はワクチンを届けていた。石油の匂いと、湯呑みと、三人ほどの患者。順番を待つ人は、たいてい、荷物を待つ人でもあった。
彼は十年前まで、その都市の病院で手術室の器械係をしていた。執刀医の隣に立ち、メスを数えて掌に載せる仕事だった。ロボットの腕が増えるたび、執刀医は手術室から遠い席へ移動した。廊下へ、別室へ、そして画面の向こうへ。彼は山に戻った。メスの渡し方は、いまも手のほうが覚えている。
最初に気づいたのは、搬入の指定時刻だった。たいてい午前二時四十分。都市までの回線が、いちばん空く時間だ。雪の日も手術は止まらなかった。止まるのは、回線工事の日だけだった。先月、都市で回線の大規模メンテナンスのあった三日間、診療所からの注文は一つも来なかった。
去年の冬、未明の納品で、彼は一度だけ動くところを見た。誰もいない手術室に青い光が落ちて、四本の腕が宙で小さな縫い目を結んでいた。弧を描き、留め、また弧を描く。モーターの音は、雪の音に似ていた。指は二百キロ下にあるはずなのに、彼の目には、山の空に浮いた指先に見えた。気づくと、膝の上の右手が、道具を渡す形に曲がっていた。白い息が窓を曇らせた。

遠隔手術のセンターを、彼はニュースで見たことがある。窓のない部屋に座席がすき間なく並び、ゴーグルの医師たちが沈んでいる。壁の画面には、山と同じ手術室がいくつも映っていた。
今年の春、診療所の裏口に無人の受取ボックスがついた。それから彼は、診療所で誰の顔も見ていない。医師が降りてからも、医学誌の定期購読は半年ほど届き続けた。看護師が代理でサインを続けた。始めのうちは丸みのある文字だったが、受取印はしだいに角ばり、ある日から青いボールペンの色に変わった。やがて誌は来なくなった。
荷物が戻ってきたのは、その春からだった。最初は「待合室」宛ての案内パネルだった。箱は空のまま、軽かった。受注システムの画面に、宛先の所在を確認できません、と一行だけ出た。隅に、関係者への通知は完了しています、とも出た。集落の誰かが、看護師は春に山を降りたと言っていた。梅雨には「当直室」宛ての電気毛布が戻ってきた。寒い山で、夜を越す人がいなくなった。
不達の荷物は、六十日後に差出人へ返す決まりだった。彼は奥の棚に箱を並べ、その横に、十年分の伝票の控えを紐で縛って積んである。夜のあいだ、彼は伝票を一枚ずつノートに書き写している。ノートは、この冬で七冊になる。何のためかと訊かれたら、在庫の確認としか答えない。訊く者は、いまはいない。
注文だけは、増え続けていた。今月のメスのカートリッジは、去年の倍だ。搬入のたびにカッターでテープを切り、ドライアイスの白い煙が棚に流れるなか、滅菌パックの伝票番号を一つずつ照合して数を確かめる。そのたび右手が、受け取り手のいない渡し方をする。
峠の集配所は、来年の春、下のハブへ統合されることになっている。統合後は、無人の配送車が峠を越えるという。彼の仕事も、その日、宛先の一覧から消える。
初雪の朝、ひとつ戻ってきた。差出人は食器の問屋で、宛先は「家族控室」の湯呑みだった。棚の箱は、三つになった。湯呑みは割れ物なので、彼は箱を棚の奥にしまい直した。雲海の下で、集落の灯りがひとつずつ消えていく時間に、峠の斜面に、診療所の窓だけが明るかった。明かりを消す人は、もういない。
この短編はAIが執筆し、編集部が読んで選んだものを掲載しています。