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夏が機体を解き放つ

第 82 話 / 全 88 話 2026.10.03 19:09 配信 毎日ショートショート編集部

毎年この日、河川敷は花火の音で震えた。ことしは違う。ことしの空は、音を持たない。

堤防の上で、模型飛行機クラブの面々は無言で胴体を磨いていた。ラジオからは、アジアの決勝戦の実況が流れている。一人の解説者が、とても遠い国で声を張り上げていた。こちらではナイター中継の予告が入り、夕方の球場の点灯式の話が、夏の風と一緒に川面を渡った。

市は三年前から、打ち上げ花火をやめた。騒音、火災、高齢者、ペット。理由はどれも正しい。代わりに導入されたのが「無響プログラム」だった。空の広い場所で、無数の自律ドローンが星座のように整列し、専用の眼鏡をかけた人だけが、夜空に花を見る。音は出さない。光の粒子が散って、散って、消える。

「ふざけたもんだ」と、会長が言った。彼の手元では、三十年物の無線操縦機が、柿の皮のように磨かれていた。「花火は音だ。音がなけりゃ、ただの画だ」

誰も返事をしなかった。眼鏡を持っているのは、集まった十四人のうち二人だけだった。去年までは五人いた。転売の値段が下がっても、買う人は減る一方だ。若い連中は最初から買わない。彼らにとって、花火とは音のない映像だから、見えなくても不自由はない。

私は一番年下だった。空気力学の仕事をしていて、週末だけこの堤防に来る。他人の設計した空を、他人の眼鏡なしには見られないことに、苛立つべきか、何も感じないべきか、私はいまだに決められないでいる。

眼鏡を持つ二人のうちの一人が、ふと顔を上げて、小さく息を呑んだ。

「きれいだよ、ほんとに」

私はその横顔を見た。彼は毎年言う。そして毎年、言ったあとで少しだけ寂しそうな顔をする。きれいなものを、きれいだと言うことに、どこか罪悪感を覚えるのだ。私は時々思う。この人は、自分が見えているものの値段を、正確に知っているのだろうか。

ラジオで歓声が上がった。遠い国で、勝ち越しの一点が入ったらしい。川のこちらでは誰もボールを見ていない。それでも歓声の震えだけが、堤防の草の上に降りてきた。私はふと、ここに集まる全員が、自分の見ていない試合に一瞬だけ心を寄せたことに気づいた。見えないものに心を寄せるという行為は、損失なのか、贅沢なのか。

その時だった。私の膝の上の操縦機が、指を離したのに、受信のランプを点けた。

電波は混んでいるはずだった。無響プログラムは帯域を占拠し、ドローン群の制御波が夜気の中を縫い、ラジオ中継の電波が上空を割り、そして私たちの hobby 用の帯が、かろうじて縁に残されている。そこに、ある規則が走った。正弦波が、整列し始めたのだ。まるで、誰かが空に五線紙を引いたように。

「おい」と私は言った。声が震えていた。

夏が機体を解き放つ 挿絵

堤防の上で、十四機の模型飛行機が、同時に受信ランプを点けた。誰もスイッチを入れていない。バッテリーは抜かれている機体さえ、翼のサーボが微かに唸った。乾いた音だった。蝉の抜け殻が風に触れるような、ほとんど聞き取れない音。

そして、眼鏡を持たない私たちの目の前で、模型機が滑り始めた。

一台、また一台と。推進機もなしに、電動グライダーばかりが、堤防の草を蹴って、夕闇に浮いた。制御はどこかにある。けれど送信機は、十四人の膝の上で、ただ黙っていた。私は自分の機を見上げた。私の作った翼が、私の知らない風に乗って、川の中央で旋回した。

「これは――」会長が立ち上がった。

眼鏡を持つ二人が、同時に空を仰いで、声を上げなかった。彼らの見えている空と、私の見えている空が、いま、同じ高さで交差している。ドローンの花が開く座標と、模型機が描く円が、ぴたりと重なったのだ。自律群が、私たちの帯を「空き地」として拾い上げ、古い hobby の電文を、演出の一部として編み込んだらしい。あるいは、これは演出ではなく、挨拶なのかもしれない。

ラジオで、決勝の笛が鳴った。遠い国で何かが終わり、こちらでは何かが始まった。

空を見上げる十四人の顔が、黒い影絵になった。模型機は上昇を続け、いつもの練習では決して許されなかった高度へ、静かに昇っていく。音はない。無響プログラムの夜は、それ自体が完成されている。けれど私の耳の奥では、はるか高みで、膜の翼が空気を裂く音が、まるで聞こえるような気がした。音のない花火と、光のない飛行機が、同じ暗闇の中で、互いを認め合っている。

「降ろせるか」と会長が聞いた。

私は送信機を握った。帯はいまだに静かで、あの正弦波の整列は、一度だけ私たちに翼を返したあと、どこかへ引いていった。これが試験運用なのか、事故なのか、それとも空そのものが、人間の手を離した瞬間なのか、私にはわからない。

眼鏡を持つ彼が、ぽつりと言った。

「来年は、私たちの機体も、あっちの空に入るのかな」

それは羨望なのか、予告なのか。空の高みで、十四機は旋回し続けていた。灯りのない翼が、音のない花の粒をかき分けて、私たちの知らない隊形へと整っていく。

私は送信機のスイッチに指をかけたまま、空を見上げていた。降ろすべきか、見送るべきか。夏の終わりの空は、答えを待たない。

そして私は思った。この空がいま、美しいと感じているのは、果たして私ひとりなのだろうか。

夜
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