記憶温度図書館

毎日ショートショート

夕暮れ時。

ナカムラ氏はいつものように、街外れの古い図書館へと向かった。

レンガ造りの外壁は蔦に覆われ、木製のドアを開けると、古書の匂いと、しんとした静寂が迎える。

 

彼のお気に入りの席は、窓際の文学コーナーの一番奥だ。

今日もそこに腰を下ろし、慣れた手つきでハードカバーを開いた。

薄暗くなる空の下、ページを繰る音が心地よく響く。

 

しかし、最近、この図書館には奇妙な現象が起きていた。

特定の場所だけ、急に気温が変動するのだ。

ナカムラ氏が座っていた窓際も、なぜか今日はずいぶんと肌寒い。まるで冬の朝のようだった。

 

「困ったものですね、ナカムラさん」

巡回してきた司書のサトウさんが、小声で言った。

彼女は肩に薄手のカーディガンを羽織っている。

「この数日、特にひどくて。向こうの参考書コーナーなんて、真夏の蒸し風呂みたいなんですよ」

 

実際、サトウさんが指し示す方向からは、かすかに空調の効きすぎた部屋のような冷気と、熱帯雨林のような湿った熱気が混じり合って流れてくる。

ナカムラ氏は興味をそそられ、席を立った。

文学コーナーの境界線を越えると、本当に空気が一変した。熱気が頬を打つ。

額に汗がにじむほどの暑さだ。

 

「あら、ナカムラさん、涼みに来ました?」

参考書コーナーの奥で、若い学生のミツキが声をかけてきた。

彼女は厚手のセーターを着て、冷たい缶コーヒーを片手に分厚い参考書を読んでいた。

「私は向こうのSFコーナーで体を温めてから、ここで涼んでるんです。効率的でしょ?」

 

ナカムラ氏は、この現象が単なる故障ではないと直感した。

翌日、彼は図書館の歴史を調べ始めた。古い資料が収められた、普段は立ち入り禁止の地下書庫に、特別に許可を得て入った。

埃まみれの棚の奥で、彼は一冊の古びた日記を見つけた。

それは、この図書館を設計した初代館長のものだった。

 

日記には、図書館の建設に込められた奇妙な哲学が記されていた。

「この図書館は、ただ本を収める器ではない。訪れる人々の読書における『記憶』と『感情』、そしてその時に感じた『環境』を収集し、空間に定着させるのだ」

続けて、こうあった。

「読書とは、場所と時間、そして感情が一体となった体験である。それを再現することで、人々はより深く本と向き合うだろう」

 

ナカムラ氏は、あの温度変化の理由を理解した。

特定の場所が寒いのは、かつてそこで誰かが、暖房の効かない寒い部屋で本を読み、知識を得た記憶の残滓。

暑いのは、エアコンのない真夏の午後に、物語に没頭した記憶の再現。

それは、図書館が人々の「ノスタルジー」を具現化している証だった。

 

日記を閉じたナカムラ氏は、再び窓際の席に戻った。

肌寒い空気の中で、彼はかつて自分がこの場所で、将来への漠然とした不安を抱えながら、静かに哲学書を読んでいた学生時代を思い出した。

図書館は、最も多くの人々に「心地よい」と感じられた読書体験を再現することで、常に利用者を呼び込んでいたのだ。

しかし、その「心地よさ」の再現は、時として、真逆の不快な記憶をも必要とする。

そして、図書館が一番効率的だと見なしたのは、それぞれの記憶が持つ「温度」を、空間のエネルギーとして利用することだった。

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