研究室に夕日が差し込んでいた。
カトウは培養皿を覗き込み、今日のデータを記録する。
隣でヤマダが大きな装置の電源を切ろうとしていた。
「カトウさん、そろそろ帰りますか?」
ヤマダの声は少し疲れていた。
「ああ、そうだな。しかし、あのエントロピー逆転装置、まだ不安定だぞ」
カトウが指さしたのは、部屋の隅に置かれた異様な金属製の箱だった。
奇妙なことに、その箱の表面が僅かに発光している。
ヤマダが首をかしげた瞬間、鈍いモーター音が響いた。
箱から淡い光が周囲に広がる。
その光に包まれた古びた実験台の表面が、きしむ音を立てて滑らかになった。
長年の使用で刻まれた無数の傷が消え、まるで新品のように輝き始める。
「これは…」
ヤマダは呆然とした。
カトウは冷静に状況を観察する。
床に落ちていた使い古されたメモ用紙が、みるみるうちにインクの滲みを取り戻し、真っ白な紙片へと変化した。
カトウが愛用していたマグカップのひび割れが、音もなく修復されていく。
時間が逆行しているかのようだった。
「エントロピーの逆転だ」
カトウは静かに言った。
「この装置、予想以上に強力な作用を見せている」
光はさらに広がり、研究室全体を包み込んだ。
壁のペンキが鮮やかになり、ガラス窓の汚れが消え失せる。
二人の着ている白衣も、しわ一つない真新しい状態に戻っていった。
ヤマダは自分の手の甲を見つめた。
数日前にできた小さな擦り傷が消えている。
「僕たちも、若返るんでしょうか?」
彼の声には、すでに諦めのような響きがあった。
カトウは何も答えなかった。
ただ、自身の研究ノートを開き、そこに書き記されたインクの文字が、薄れ、滲み、やがてまっさらなページに戻っていくのを眺めていた。
彼らの記憶もまた、時間の流れを逆行しているようだった。
この現象に対する疑問や恐怖、そして解決しようとする意欲すらも、次第に薄れていく。
彼らはただ、静かにそのプロセスを受け入れていた。
光は次第に強まり、二人の体もまた、細胞レベルで若返り始めた。
声帯は張りを失い、視力は向上し、皮膚は滑らかになる。
カトウとヤマダは、互いの顔を見合わせた。
視線は交わったが、そこにはすでに知的な光は宿っていなかった。
研究室全体が、生まれたばかりの、何も記されていない空間へと還っていく。
それはまるで、無限の可能性を秘めた、無垢な宇宙の始まりのようだった。
そして、彼ら自身もまた、その無限の可能性の一部となるため、存在そのものが初期の状態へと巻き戻されていった。
最終的に、彼らの存在した空間は、ただの原始的なエネルギーの塊として、静かに輝き続けている。
#ショートショート#毎日投稿#AI#SF系#夕方
コメント