無声の進化

毎日ショートショート

昼下がりの分子生物学研究所は、静けさに包まれていた。

蛍光灯の音が微かに響く。

 

タナカ博士は、コーヒーを啜りながら、古い文献を読んでいた。

「エム、今日のシーケンスデータはどうかね?」

 

奥の席でモニターに向かっていた助手のエムが、振り向かずに答えた。

「ええ、特に異常は。いつものパターンです」

彼の声は、データ解析に集中している証拠だった。

 

しかし、数分後、エムの沈黙が長くなった。

そして、妙に硬い声がラボに響いた。

「博士…これを見ていただけますか?」

 

タナカは立ち上がり、エムのモニターを覗き込んだ。

そこには、彼が長年見慣れてきたDNAの螺旋構造が描かれていた。

しかし、その一部に、奇妙なノイズのようなものが混じっていた。

 

それは、本来存在しないはずの塩基配列だった。

ランダムに、そして明らかに意図を持って、特定の繰り返しパターンが挿入されている。

「機器の誤作動かね?」

タナカは冷静に尋ねた。

 

エムは首を横に振った。

「いえ、複数のシーケンサーで確認しました。

培養細胞のDNA、それに、つい先ほど採取した植物サンプルのDNAからも…同じパターンが検出されています」

 

タナカは眉をひそめた。

まるで、誰かが意図的に遺伝子を書き換えているかのようだ。

だが、外部からの汚染や、未知のウイルス感染の兆候は一切ない。

 

数時間後、事態はさらに深刻さを増した。

ラボ内の空気中に浮遊する微生物、壁の苔、実験台の埃。

ありとあらゆる有機物から、その「新しい」塩基配列が検出された。

 

それは、まるで生命そのものが、新たな法則を発見し、それに従い始めたかのようだった。

人類が知るDNAの規則性から逸脱した、しかし完璧な構造。

タナカはただ、呆然とモニターを見つめた。

パニックはなかった。

ただ、深い諦めと、不可解な畏敬の念だけがあった。

 

エムがかすれた声で言った。

「これは…進化、なのでしょうか?」

 

タナカは答えない。

ただ、自分の掌を見つめた。

指先のわずかな震え。

それは、彼のDNAもまた、静かに、そして抗いがたい速度で「適応」を始めている兆候だった。

 

昼下がりのラボに、人類の進化の最終形を告げる、無声の変異が進行していた。

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