言の葉珈琲店

毎日ショートショート

K氏はいつもの通勤路から外れ、薄い霧に誘われるように路地裏へ足を踏み入れた。

そこには「言の葉珈琲店」という古びた看板を掲げた小さな店があった。

いつもは気づかなかった店だ。

まるで霧が店を隠していたかのようだった。

 

扉を開けると、鈴の音が小さく鳴った。

店内は仄暗く、豆を挽く微かな音と、古い木材の香りが漂っていた。

カウンターには無口な店主、R氏が立っていた。

奥のテーブル席には、古風なレースの服を着たM夫人が一人、窓の外を眺めている。

 

K氏はカウンターに座り、「ブレンドを」とだけ告げた。

R氏は無言で頷き、手際よく準備を始めた。

その時、M夫人が小さく呟くのが聞こえた。

「ああ、少し風が欲しいわね。」

 

すると、店の奥にある小さな開かずの窓が、カタッと音を立てて微かに揺れた。

K氏は訝しんだが、気のせいだろうと思った。

M夫人が今度は、カップを手に取りながら呟いた。

「今日の新聞、もう少し明るい話題があればいいのに。」

 

K氏の前に置かれた新聞の一面見出しが、彼の目を疑うほどに輝きを増した。

それは「世界平和への第一歩、歴史的会談」という文字だった。

彼は新聞を二度見し、R氏の顔を見たが、R氏は表情一つ変えない。

M夫人は満足げに微笑んだ。

 

K氏は試しに、小声で呟いてみた。

「まさか、そんなことが。」

彼の目の前の砂糖壺から、カラコロと音を立てて角砂糖が一つ、自ら飛び出した。

K氏は驚いて椅子から少し浮き上がった。

 

R氏が静かにカップを差し出した。

「言葉には力があります。この店では、それが少しばかり顕現しやすい。」

K氏は震える手でコーヒーを受け取った。

コーヒーの香りも、どこか言葉を宿しているかのようだった。

 

K氏の心臓は高鳴った。

彼はこの力をどう使うか考えた。

「金持ちになりたい」「権力を手に入れたい」。

しかし、M夫人とR氏の顔には、どこか諦めのようなものが漂っているように見えた。

 

K氏は、より大きな、普遍的な願いを試すことにした。

世界をより良くしたいという、純粋な衝動だった。

彼は深呼吸をし、店中に響き渡るように、しかし抑制された声で宣言した。

「この世界が、もっと平和になりますように!」

 

その瞬間、店の外から遠くで、ゴゴゴ、という地鳴りのような音が聞こえた。

R氏が静かに言った。

「言葉は、常に均衡を求めます。一つの強い願いは、その対極もまた生み出す。」

M夫人は静かに立ち上がり、カウンターに代金を置いた。

「これで今日のパンが買えるわね。」

 

K氏が混乱してM夫人を見ると、彼女は店の隅にある壁を指差した。

そこには、まるで古い羊皮紙に書かれたかのように、無数の文字が壁の奥深くに埋め込まれていた。

「あなたの『平和』という願いも、もうすぐあそこに行きますよ。」とM夫人。

R氏がカウンターの奥から、新しいカップとソーサーを取り出した。

それらはまだ、何の文字も刻まれていない、真っ白な陶器だった。

「そして、店は常に新しい素材を必要としています。特に、具体的なもののない、漠然とした『願い』は、良い建材になる。」

K氏は、壁に埋め込まれた文字が、今しがた自分が放った「平和」という言葉の形を取り始めているように見えた。

店の外の霧が、再び濃くなっていた。

それは、言葉が具現化した結果を覆い隠すための、優しすぎるカーテンだった。

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