朝の理科室。
タナカ先生は、いつものように準備をしていた。
生徒のAとBが、机に向かい、教科書を広げる。
実験台には、ピカピカのガラスビーカーと、冷たい金属製のスタンドが並ぶ。
室内の空気は、少し湿り気を帯び、薬品の匂いがかすかに漂っていた。
今日の授業は、物質の性質に関する実験だ。
生徒たちの目は、好奇心に満ちていた。
活気に満ちた一日の始まり。
実験が始まった。
ガスバーナーの青い炎が、試験管の底を温める。
液体が、ゆっくりと泡立ち始めた。
生徒Aが、温まった試験管をスタンドから外そうとした。
「先生、これ、変です」
Aの声には、わずかな動揺が混じっていた。
「どうした、Aくん」
タナカ先生が近づく。
「試験管が……ゴムみたいに、ぐにゃぐにゃします」
Aは、細いガラスの試験管を、まるで粘土のようにしならせて見せた。
タナカ先生は眉をひそめた。
ガラスがゴム?
そんなはずはない。
「気のせいだろう。よく見てごらん」
しかしAの顔は、真剣そのものだった。
しばらくして、生徒Bが声を上げた。
「先生!この金属製の棒が、まるでザラザラの砂みたいです!」
Bが持っていたのは、頑丈な鉄製の撹拌棒だった。
その棒の表面は、見るからに滑らかなはずなのに、Bの指はまるで砂の中に突っ込んだかのように、摩擦を感じているようだった。
タナカ先生は、Bの手から棒を受け取った。
彼の指先が、確かに微かな抵抗を感じる。
本当に砂のようだ。
しかし、視覚はそれを金属だと認識している。
これは一体どういうことだ。
タナカ先生は、教卓に置いてあった教科書を手に取った。
紙の表面は、本来滑らかで、わずかな凹凸があるだけだ。
しかし今、彼の指が触れた紙は、まるで濡れたスポンジのように、水分を含み、じっとりと吸い付くような感触だった。
文字がにじんで見えたのは、目の錯覚か。
いや、そうではなかった。
彼の認識そのものが、歪み始めていた。
理科室の空気が、奇妙な重みを持ち始めた。
生徒たちが、それぞれの実験器具に触れ、奇妙な声を上げている。
フラスコは粘土のように柔らかく、ビーカーは乾いた土の塊のようだった。
ガスバーナーのノズルは、まるで滑らかな石鹸のように、指から滑り落ちそうになる。
彼らは皆、目を大きく見開き、信じられないものを見るかのように、互いを見つめ合った。
触覚の混乱が、理科室全体に広がっていく。
その場に満ちる、生徒たちの探求心と集中力。
そして、熱を帯びた好奇心。
それらが、触覚の認識を揺るがしているのだろうか。
タナカ先生は、冷静を保とうと努めた。
彼は、自身の掌をゆっくりと開いて閉じた。
掌の皮膚が、まるで細かな鱗で覆われているかのように、ざらつきを感じた。
まるで、異質な皮膚をまとっているようだ。
この変化は、一体どこから来たのか。
そして、どこまで広がるのか。
授業終了のチャイムが鳴った。
タナカ先生は、生徒たちを解放した。
彼らが慌ただしく理科室を出ていく。
その背中が、まるで泡のように揺らいで消えるのを、タナカ先生は感じた。
彼は、ゆっくりと理科室のドアノブに手をかけた。
冷たいはずの金属が、ぬるぬるとした粘液のように指に絡みつく。
ドアを開け、廊下へ一歩踏み出した瞬間、彼の足の裏に、床のコンクリートが、細かく砕けた砂利のように感じられた。
そして、遠くから聞こえてくる他のクラスの生徒たちの活気ある声が、彼の耳には、まるで数えきれないほどの泡が弾ける音のように、聞こえてくるのだった。
世界は、常にそのように存在していたのかもしれない。
ただ、我々の脳が、それを都合よく認識していただけなのだ。
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