K博士は試験管を並べた。
量子意識の観測実験である。
ラボの壁は真っ白で、窓からは灰色の空が見えた。
いつも同じ景色だった。
助手Aは黙々とデータを入力していた。
彼もまた、いつも通りの淡々とした動作だった。
このラボで、彼らは何年も同じ実験を繰り返していた。
日々の変化はほとんどなかった。
無機質な光が天井から降り注ぎ、すべてを均一に照らしていた。
まるで時間が止まったかのような場所だった。
K博士は観測装置を起動した。
微細な粒子がモニターに映し出される。
意識の介入により、その振る舞いが変化するはずだった。
「完了しました、博士」
助手Aの声が響いた。
K博士はデータを確認する。
しかし、画面に表示されたのは初期設定値だった。
「またか」
K博士は呟いた。
ここ数ヶ月、この現象が頻繁に起こっていた。
データが保存されず、常に実験開始前の状態に戻ってしまうのだ。
システムログをチェックしても、異常は見当たらない。
「助手A、君のデータはどうなっている?」
K博士は尋ねた。
「私のデータも同様です、博士」
助手Aは表情を変えずに答えた。
「昨日も、その前も、ずっと同じですよ」
彼の言葉には奇妙な響きがあった。
まるで、それが当然であるかのように。
K博士は既視感を覚えた。
この会話も、以前に全く同じように繰り返された気がする。
彼は壁の時計を見た。
長針はぴったりと正午を指したまま動かない。
毎日、実験を始める時間は正午だった。
彼は、時計の針を動かそうと手を伸ばしたが、ガラスのように硬い表面に阻まれた。
触れることもできない。
窓の外の空は、やはり灰色だった。
同じ雲が、同じ位置に浮かんでいる。
彼の記憶の中では、外の景色が変化したことが一度もない。
ラボの温度も、湿度も、空気の匂いすらも、常に一定だった。
K博士は窓に手を触れた。
冷たく、滑らかな感触。
外からの風は一切入ってこない。
K博士は研究日誌をめくった。
今日の日付は確かに新しい。
だが、その内容も、昨日、一昨日と寸分違わず同じだった。
彼はこれまで気づかなかったのだろうか。
あるいは、気づかされていなかったのだろうか。
何かが、このラボを、この時間を、固定している。
まるで、誰かの観測によって、すべてが凍結されているかのようだった。
助手Aは再び、黙々とデータを入力していた。
その指の動きも、いつもと同じリズムだった。
彼の後ろ姿からは、一切の感情が読み取れない。
K博士は、自分自身の意識が、この異常な状況を作り出しているのではないかとさえ考えた。
しかし、その考えも、すぐに意識の奥底に消えていった。
彼は深く息を吸い込んだ。
吸い込んだ空気も、いつもと同じ、僅かにオゾン臭のするラボの匂いだった。
そこには、何の驚きも、変化もなかった。
ただ、静かに時間が「存在」しているだけ。
その瞬間、助手Aが顔を上げた。
「博士、もう一度観測を始めましょう」
その声は、これまでで最も生き生きとしていた。
K博士は、自分の腕に薄っすらと印された数字の羅列を見た。
それは、今朝目覚めた時にはなかったはずの、見慣れない識別コードだった。
そして、彼の意識は再び、今日の始まりに戻った。
それは、まさに『観測』の始まりだった。
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