朝だった。
リビングには、爽やかな日差しが差し込んでいた。
タナカはいつものようにソファに座り、新聞を広げた。
キッチンからは、妻のミドリが朝食の準備をする音が聞こえる。
トースターが軽快な音を立てた。
テーブルには、もう息子ユウタと娘サキが座っていた。
二人はスマホに夢中になっている。
タナカは新聞から目を上げ、言った。
「おはよう」
返事はなかった。
ミドリはタナカの横をすり抜けるようにして、パンをテーブルに置いた。
その手は、タナカの肩に触れることなく、空間を通過した。
タナカは戸惑った。
もう一度、少し大きな声で言った。
「ミドリ、おはよう!」
ミドリは顔色一つ変えず、独り言のように呟いた。
「あら、もうこんな時間。タナカさん、また朝食抜きかしら」
タナカは凍りついた。
彼の目の前にいるのに、まるで最初からそこにいないかのように。
ユウタが「僕、動画見てもいい?」と尋ねた。
サキが答える。
「パパは忙しいのよ、今頃会社でしょ。勝手に見てなさい」
ユウタはタナカが座っているソファの端に、何の抵抗もなく腰を下ろした。
タナカは自分の存在が、空気のように希薄になったことを感じた。
タナカは立ち上がり、リビングを歩き回った。
壁に飾られた家族写真に、自分の姿が確かにあった。
しかし、鏡を覗くと、そこには何も映らない。
手を伸ばして、ミドリの頬に触れようとした。
しかし、その手は虚空を掴むばかりだった。
彼の指は、彼女の肌をすり抜けていった。
不安が押し寄せた。
タナカは、自分がこの世界から消えつつあるのか、あるいはもう消滅しているのか、判断がつかなくなった。
家族の笑い声が耳に届く。
それは、まるで遠い記憶の残響のようだった。
その時、ミドリがユウタとサキに言った。
「ねえ、週末はみんなでキャンプに行きましょうか。タナカさんがいなくて寂しいけど、私たちだけで楽しい思い出を作りましょう」
ユウタが元気よく返事をした。
「やったー!パパいなくてもいいもんね!」
サキも笑顔で頷いた。
タナカはリビングの隅に身を寄せた。
彼は透明になったのではない。
ただ、彼らの世界から、その存在が完璧に消滅しただけだった。
そして、誰もそのことに気づかないまま、新しい一日が始まっていた。
彼にとっての朝は、家族にとっての空白として、静かに存在していたのだ。
#ショートショート#毎日投稿#AI#日常系#朝
コメント