A氏は目覚めた。
窓からは眩しい陽光が差し込み、部屋中に満ちていた。
カーテンは開け放たれ、室内の埃が光の粒となって舞うのが見えた。
隣にはB氏が眠っている。
規則正しい寝息が、朝の静けさに溶け込んでいた。
A氏の頭には、妙な感覚があった。
昨日あったはずの出来事が、ぼんやりしている。
夢と現実の境目が曖昧な、そんな朝特有の感覚ではなかった。
もっと根本的な、記憶の基盤が揺らいでいるような違和感。
B氏が身じろぎした。
ゆっくりと目を開ける。
A氏と目が合った。
「おはよう」とA氏が言うと、B氏は困惑した顔で答えた。
「あなた、昨日、あの大きな魚を釣ったの?」
A氏は首を傾げた。
魚釣りなど、ここ数十年していない。
B氏はさらに続けた。
「それがまた、やけに大きくてね。タモ網も持たずにどうしたのかと…」
A氏は別の記憶を思い出した。
それは数年前、彼が友人Kとゴルフに行った日のことだ。
豪快なOBを出し、Kが腹を抱えて笑った。
その記憶がなぜか、B氏の顔をちらつかせた。
寝室は、たしかにエネルギッシュだった。
窓の外からは、子供たちの賑やかな声が響く。
隣家の犬が吠え、遠くで工事の音がする。
あらゆる音が、この部屋に吸い込まれては、記憶の混濁を助長しているかのようだった。
やがて、C子が目を覚ました。
彼女は二人に顔を向け、言った。
「パパ、ママ、あのね、昨日、わたし、初めて逆上がりできたのよ」
A氏とB氏は顔を見合わせた。
C子はすでに大人だ。
幼い頃の記憶を、まるで昨日のことのように話している。
そればかりか、A氏とB氏の脳裏にも、C子が逆上がりをしている光景が鮮明に浮かんだ。
それは、それぞれの視点からの光景だった。
A氏が庭で指導していた場面。
B氏が縁側から見守っていた場面。
二つの記憶が、一つの「昨日」として融合した。
さらに奇妙なことが起こった。
A氏はB氏の幼い頃の記憶を、まるで自分のことのように体験し始めた。
初めて自転車に乗れた日の興奮。
飼っていた子犬との別れ。
B氏はA氏の青春時代の思い出を、鮮やかに語り始めた。
初恋の相手のこと。
大学受験の苦労。
彼らの記憶は、まるで一枚の大きな絵画のように、互いの色を吸収し、混ざり合っていく。
寝室は、そのエネルギッシュな光と音を増し、記憶の波が押し寄せた。
彼らの人生が、この部屋の中で再構築されているかのようだ。
過去と現在、彼らのものと誰かのもの。
境界線はもはや存在しなかった。
彼らはもはや、個々のA氏とB氏ではなく、C子でもなく、ただ「人生」という名の記憶の集合体としてそこにいた。
静かな混乱が、部屋を支配した。
正午を過ぎ、リビングの時計がチャイムを鳴らした。
C子は温かいお茶を二つの湯呑みに注ぎ、テーブルに置いた。
「お父さん、お母さん、また昔の話してる」
彼女の声は穏やかだった。
A氏とB氏は、テーブルを挟んで向かい合っていた。
彼らの視線は宙をさまよい、時折、遠い記憶の残像を捉えるかのように瞬いた。
その「エネルギッシュな寝室」は、ただ陽光が降り注ぐリビングの、二つの古い頭脳の中の出来事だった。
そして彼らの記憶は、家族で紡いだ歳月という名のアルバムの上で、確かに混ざり合っていた。
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