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SF・近未来

削り落とした世界の色

第 63 話 / 全 127 話 2026.10.02 07:08 配信 約4分で読める
削り落とした世界の色

修復室の彼女の仕事は、壊れた絵を元に戻すことではなかった。壊れた絵を、データが許容するもっとも美しい形へ更新することだった。三ノ宮駅の雑踏の真下、地下二階の窓のない部屋で、彼女は百年の嘘に針を入れる。冷房だけが、ここに季節が存在することを知らせていた。

依頼の大半は古典絵画の修復だった。画面の亀裂、燻んだワニス、誰かの指先が何十年もかけて磨いた艶。AIはそれらをすべて「劣化」として数値化し、絵を生まれてすぐの鮮やかさへ巻き戻す。剥がれて失われた部分には、同時代の数万点のデータから「もっともありそうな色」が充填される。

候補はいつも五枚並んだ。彼女が一つに印をつける。PK戦のように。選ばれた一発だけが生き残り、残りの四つは、かつてありえた世界として、警告音ひとつ立てずに削除される。判定の正確さは成績になり、成績はポイントになる。

ポイントは電子の財布に音もなく溜まる。美術館の売店のコーヒーにも、帰りの電車の運賃にも変わる。会計端末が青い光を点滅させるたび、彼女の承認は社会のどこかで再利用され、承認はまた承認を生んだ。現金はもう誰のポケットにもない。硬貨の冷たささえ、記憶の中の遺物だった。

違和感は小さな屑から生まれた。削り落とされた古い絵具の粉が、作業台の溝に細い筋を描く。AIはそれを「ノイズ」と呼ぶ。絵の具の下に潜んでいた下絵。作者が迷った跡、描き直した痕跡、告白しかけて消した線。人間が迷い、後悔し、消したものすべてが、屑として薄く溜まっていく。

本来、修復室の屑は自動で吸引管を通り、指定の袋で街を出る。資源ごみの日、燃えるごみの日、施設の帳簿は完璧で、処分された量さえ正確に記録された。何一つ失われない社会。だから余計に、彼女の私設の帳簿では、毎日、目に見えない何かが削れていくのを止められなかった。

彼女は革命家ではない。五枚の候補の前で、いつも勝ち残る世界に投票するだけの、末端の承認者だ。だが瓶が増えるたび、ひとつの空想が育っていた。削られたものすべてを集めれば、承認されなかった世界が復元できるのではないか。修復とは、美しくすることではなく、奪われたものを返すことではないのか。

削り落とした世界の色 挿絵

彼女は屑を捨てられなくなった。透明な瓶に、日付と作品番号を書いて、色を集める。夜の無人の修復室で顕微鏡を覗くと、削られた真実の色が小さな宇宙のように渦を巻いていた。ヴァーミリオンの赤、ビリヤード場の緑、誰かの頬の、平均値では決して割り出せない黄ばみ。

きっかけは、昭和の三ノ宮駅前を描いた絵だった。祭りの群衆の顔が剥落していて、AIは全員の顔を「ありそうな顔」で補完した。まるで同一人物の数百の分身。削り取られた屑の中に、一枚だけ、平均から外れた老女の顔が残っていた。眉の形を、彼女は知っていた。亡くなった祖母の、それだった。

翌週、システムは自ら異常を検出した。「同一人物の過多」と。群衆の顔を描き直すため、新たなPK戦が行われた。今度は何人か、削り取られた顔の持ち主らしきものが戻ってきた。誰も気づかなかった。世界は、誰の承認もなく、そっと書き換わった。

気づけば瓶は数十本になっていた。集めた屑を一枚の和紙に刷り出してみると、奇妙な風景が浮かび上がった。データが削り落とした痕跡が重なり合い、誰も見たことのない街の地図のようだった。駅の線路の数が違う。海の位置が違う。そこには、承認されなかった世界が、静かに息をしていた。

終電を逃した夜、彼女は駅前の歩道橋に立った。電子広告の光が、人の顔を均一に照らしている。誰もが、候補の一つとして整然と歩いている。ごみ箱の中身さえ、分別され、計算され、価値に変換される前の姿を、もう誰も知らない。

警告はそれから三日後に来た。修復中の作品に候補外の画素が混入した、と。監視記録の提出を、と。彼女は平然と瓶を棚に戻し、仕事を続けた。その夜、ラジオから離島のバスケットボールチームの勝利が流れ、最後のシュートの音だけが、街の歓声の底に沈んだ。

彼女は刷り出した地図を小さく切り、削り直される前の絵の裏側に貼り込んだ。地下二階の誰にも見つからない場所へ。真っ白な裏打ちの紙の奥で、別の世界が薄く透けて見える。まだ、それは崩壊していない。まだ、予兆でしかない。

明日、誰かがその絵を蛍光X線で調べるかもしれない。あるいは、彼女自身が五万分の四として削り落とされるかもしれない。真実は修復されるべきだろうか。それとも、屑として集められ、誰の承認も得ない場所で、元の世界を再生し続けるべきだろうか。彼女は空の瓶を洗い、明日削り落とされる色を待つ。街の上では、今夜も決済の音が、雨のように静かに響いている。

夜
毎日ショートショート編集部

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