朝6時。ホテル「コンラッド」のロビーは、柔らかな光に包まれていた。
ベルボーイのケンタは、宿泊客のスーツケースを運ぶ準備をしていた。
いつものように革の取っ手を握ると、奇妙な感覚に襲われた。
それは革の感触ではなく、漠然とした「期待」のようなものだった。
ケンタは首をかしげた。
次に運んだ老婦人の小さなバッグは、なぜか「郷愁」という触感がした。
重さも形も普段と変わらないはずなのに。
フロントのサユリもまた、異変に気づいていた。
チェックインを済ませた客に渡すルームキーが、手のひらで「新たな始まり」と囁いているようだった。
彼女が受け取るクレジットカードは、「消費欲求」の冷たい感触に変わっていた。
清掃係のマダム・Bは、スイートルームのドアノブを回した途端、それが「秘密」でできていると感じた。
バスタブは「解放感」のぬるぬるした感触、枕は「安堵」の柔らかさ。
彼らは困惑したが、口には出さなかった。
客は誰も異変に気づいていないようだった。
ホテルは活気を失うどころか、むしろ増しているかのようだった。
皆、満ち足りた表情でチェックアウトし、あるいは新たな一日へと繰り出していく。
ケンタは「成功」の重みがあるアタッシュケースを運び、「野心」の滑らかな床を歩いた。
サユリは「信頼」の笑顔を浮かべ、「感謝」の言葉が書かれた領収書を手渡した。
マダム・Bは「過去」のシーツを剥がし、「未来」のタオルを補充した。
この奇妙な変化がいつから始まったのか、誰も思い出せなかった。
なぜ起こっているのかもわからなかった。
しかし、確かなことが一つだけあった。
ホテルの活気は、この触感の変化によって増幅されていたのだ。
ある日、支配人のカワムラ氏が会議で言った。
「我がホテルは素晴らしい。顧客満足度が最高水準だ。これこそが、『心』を掴むサービスだ」
その時、ケンタが座っていた椅子が、これまで感じたことのない「疲労」の触感に変わった。
サユリが触れたテーブルは、「欺瞞」の冷たさを帯びていた。
そして、マダム・Bが掃除していた壁は、「諦め」のざらつきを増していた。
彼らは互いに目を合わせたが、何も言わなかった。
ただ、ホテルの活気は、相変わらず続いていた。
そのホテルの客たちは、自分たちの「願い」が形になったような感触のドアノブを握り、自分たちの「夢」が織り込まれたシーツに身を沈めていた。
ホテルは、客たちの感情を吸い取り、それを従業員の触感として還元することで、今日もまた活気に満ちている。
#ショートショート#毎日投稿#AI#日常系#朝
コメント