アサノ夫人は、いつも通り午前6時には目を覚ました。
リビングの窓を開け、ベランダへ出る。
早朝の冷気が肌を刺す。
しかし、その冷たさが逆に心地よかった。
洗濯物を干し終え、コーヒーを淹れようとすると、夫のケンイチ氏がベランダに現れた。
いつもの寝ぼけ眼だ。
「おはよう、アサノ」
ケンイチ氏が言った。
しかし、その声にはいつもの気遣いがなく、どこかぶっきらぼうだった。
アサノ夫人は少々不快に感じた。
「おはようございます、ケンイチさん。まだ眠そうですね」
と、彼女は努めて優しく言った。
「ああ、眠いさ。昨日の晩飯、肉ばかりで胃にもたれたんだ」
ケンイチ氏がため息をついた。
アサノ夫人は驚いた。
ケンイチ氏は普段、食事の文句など言わない。
アサノ夫人は自分の言葉もいつもと違うことに気づいた。
「あら、私はあなたの健康を考えているんですよ。あなたももっと家事に協力するべきだわ」
彼女は思わず口走った。
普段なら絶対に言わない台詞だった。
二人は顔を見合わせた。
互いに驚いている。
「どうしたんだ、アサノ。口が滑ったのか?」
ケンイチ氏が尋ねた。
「あなたこそ。昨日の晩、美味しかったって言ってたじゃないですか」
アサノ夫人は自分の感情を抑えきれずに言った。
その時、二人は気づいた。
このベランダでは、なぜか本音しか口にできないのだ。
外から聞こえる隣人の声も、やけにストレートだった。
「まったく、あの犬、朝からうるさいわね。我慢できないわ」
普段は温厚なオオタさんの声だった。
ケンイチ氏は腕を組み、空を見上げた。
「なるほどな。面白い現象だ」
「面白いなんて言わないでください。私だって、あなたに言いたいことは山ほどありますよ」
「言ってみろよ。どうせ俺も、このベランダじゃ建前は言えないんだ」
ケンイチ氏の言葉に、アサノ夫人は一度深呼吸した。
冷気が肺にしみる。
「あなたはいつも、私の誕生日を忘れるでしょう」
「それは悪かったと思ってる。でも、お前も俺の好きなテレビ番組を勝手に録画消すじゃないか」
「それはあなたの見方が遅すぎるからでしょう!」
二人の会話は、普段なら口にしないような、小さな不満のぶつけ合いになった。
しかし、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、心の奥底にあった澱が洗い流されるような感覚があった。
冷たい朝の空気の中で、二人の本音は白く凍る息と共に吐き出されていった。
隠し事をしないことは、こんなにも清々しいものなのか。
アサノ夫人は思った。
やがて、ケンイチ氏が壁の時計を見た。
「そろそろ、会社に行く時間だな」
彼はそう言って、ベランダのドアを開けた。
一歩、リビングに足を踏み入れた瞬間、ケンイチ氏は振り返り、アサノ夫人に微笑んだ。
「いつもありがとう、アサノ。今日も一日頑張ってくるよ」
アサノ夫人は、その言葉にいつもの優しい笑顔で応えた。
「はい、お気をつけて。夕食は何にしましょうか?」
リビングでは、彼らの口から、またいつもの『建前』が流れ出ていた。
本音は冷え切ったベランダに、置き去りにされたままだった。
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