スズキはいつも通り、退勤後の足で喫茶店「夕暮れ」の扉を開けた。
店の名は、ちょうど今外の空に広がる茜色を映しているかのようだった。
店内は薄暗く、カウンターから漏れるコーヒーの香りが、一日の疲れをじんわりと溶かしていく。
マスターのタナカ氏が、いつもの席へ促した。
「いらっしゃいませ、スズキさん。いつものですか?」
スズキは小さく頷いた。
「ええ、ブレンドを」
隣のテーブルでは、アキヤマ氏が雑誌を読みながら、ふと大きな溜息をついた。
「ああ、疲れた。体が鉛のようだ」
その言葉が店内に響くと、カウンターに飾られていた花瓶のバラが、まるで時が早送りされたかのように、みるみるうちに萎れていった。
スズキは目を擦った。
気のせいだろうか。
数分後、別の客、ミヤモト氏が窓の外を見て感嘆の声を上げた。
「なんて美しい夕焼けだ!まるで絵画のようだ」
彼の言葉に呼応するように、窓越しの夕焼けが、それまで以上に鮮やかな色彩を放ち始めた。
空全体が燃えるような赤と紫に染まり、店の窓を透過する光が一段と増した。
スズキは今度ははっきりと見た。
タナカ氏はカウンターの奥で、静かにカップを拭いている。
その表情には、奇妙な店の秘密を知っているような、落ち着きがあった。
コーヒーが運ばれてきた。
湯気から立ち上る香りは、いつもと変わらない。
スズキは好奇心に駆られた。
試しに、小さな声で呟いてみた。
「ああ、このコーヒーは、この世で一番美味しい」
その瞬間、カップから微かな光が溢れ出した。
コーヒーは揺らめき、芳醇な香りが店の隅々まで満ちた。
一口飲むと、舌の上で未知の味が広がる。
それは確かに、彼の人生で経験したことのない、至高の味だった。
スズキは、言葉が現実になる喫茶店の存在を理解した。
タナカ氏はスズキの驚きを悟ったかのように、静かに言った。
「ここでは、言葉はただの音ではありません。真実を編む力を持つことがあります。」
スズキは心臓が高鳴るのを感じた。
もし、ここで「私は大金持ちになりたい」と言ったらどうなるだろう。
「私は永遠の若さを手に入れたい」と。
長年抱えていた、ささやかな、しかし決して叶うことのなかった願いが、頭を駆け巡った。
スズキは深呼吸をし、意を決して口を開きかけた。
その時、タナカ氏が穏やかな声で言った。
「まことに恐縮ですが、閉店時間です、スズキさん」
スズキは窓の外に目をやった。
燃えるような夕焼けは、すでに深い藍色に変わり、空には最初の星が瞬いていた。
もう夜だった。
タナカ氏は続けた。
「夜になると、言葉の力は消え失せます」
スズキは慌てて、「私は明日から……」と言いかけた。
しかし、その言葉はただの空虚な音として、空間に溶けていった。
カップのコーヒーは、もはや普通のブレンドに戻っていた。
翌朝、スズキは出勤途中の電車で、昨夜の出来事を夢だったのかと考えた。
しかし、コーヒーの至福の味だけは鮮明に記憶に残っていた。
その日、会社でスズキは同期のヤマダに声をかけられた。
「おい、スズキ。お前、何かあったのか?昨日の夜からずっと顔が青いぞ」
スズキは肩をすくめた。
「いや、実は昨晩、とても面白い夢を見たんだ」
ヤマダは首を傾げた。
「夢?まさか、そんなことで顔色が悪くなるわけないだろ。そういえば、お前、最近顔色が悪いって部長が言ってたぞ。もっと健康に気をつけろよ」
スズキはため息をついた。
昨日言おうとしていた言葉を思い出す。
「私は健康になりたい」
それは、まさに今最も必要な言葉だった。
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