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値札のつかない書庫

第 97 話 / 全 101 話 2026.10.04 21:42 配信 毎日ショートショート編集部
値札のつかない書庫

木曜日の午前十一時、ごみ収集車はいつものように裏口に背を見せた。書庫の彼女は、廃棄リストを抱えてエレベーターに乗った。今日も約三千冊。デジタルアーカイブの済んだ本は、紙としての命を終えることが許されるのだ。

市立図書館の地下書庫は、冷房の風が梁のあいだを低く這う。棚は天井まで積み上げられ、通行人のいない通路は、凍った運河のように見える。彼女の仕事は簡単だった。リストのISBNを照合し、済みの印を押し、段ボールに詰める。内容は雲の上で永遠になっている。だからここにあるのは、容器にすぎない。

彼女はそう思うことにしていた。

休憩室のテレビでは、世界の出来事が流れる。ある日は、テニスの選手が大会を休むという記者会見が中継され、途中で言葉を失い、沈黙だけがカメラの前に置かれた。司会者が慌てて質問を変える。彼女はその沈黙を見て、奇妙に居心地がよかった。

別の日には、落札のニュース。誰かが誰かの絵を、一千五百万ドルで買った。画面の下を数字が流れ、その大きさを説明する。書庫の彼女は、弁当のおかずを噛みながら考えた。一千五百万ドル。蔵書七十万冊が、いくらになるのか。

計算は簡単だった。だからこそ、答えが出ないのが不気味だった。

変化は、梅雨明けのころに起きた。買い取りの問い合わせが、館に届いたのだ。海外のファンドと名乗る代理人が、ここの蔵書を一括して譲り受けたいと。金額は書いてあった。彼女は数字を二度読んだ。あの絵画の落札より、少し多かった。

条件は明快だった。初版本、署名本、市場価値のあるものはすべて回収する。残りは処分してよい。鑑定人が選ぶ。選ばれなかった紙は、今までどおりごみ収集車に載る。

館長は迷った。老朽化した空調、削られた予算、修繕を待つ屋根。断る理由が、現実にはどこにもなかった。

鑑定は三週間続いた。書庫の彼女は、白い手袋をした若い鑑定士たちに案内をした。彼らは輝度の高いライトで背表紙を照らし、匂いをかがない。指ではさみ、中身を読まない。値段は表紙と奥付と状態と希少性で決まる。言葉は関係ない。

値札のつかない書庫 挿絵

選ばれた本は、丁寧に梱包され、トラックで運ばれた。一冊ずつ緩衝材に包まれていく様子を、彼女は見届けた。三十万冊の蔵書のうち、一万四千冊。資本は、そのくらいの割合で世界を拾うのだ。

残った本は、いつもの木曜日に待っていた。ごみ収集車は変わらぬ背中を見せ、彼女は変わらぬリストを抱えた。

その日、彼女は一冊を拾った。鑑定で落ちた文庫本。学生の落書きで埋め尽くされた、 Julius Caesar の翻訳劇。ページのあちこちに、十年前の誰かの鉛筆字がある。「ここでつまずいた」「先生、嘘」「おかあさんの声」。栞に挟まっていたのは、電車の半券と、一言だけのメモだった。——明日、なんとかなる。

AIの読むアーカイブには、これらは写っていない。スキャナは本文だけを食べる。落書きはノイズとして削られ、半券は取出され、メモは捨てられた。雲の上にあるのは、洗浄された言葉だけだ。人の手が触れた痕跡は、どこにも残っていない。

彼女はその本を、段ボールに入れなかった。カウンターの引き出しに忍ばせた。業務としては、些細な脱線だ。三十万冊のうちの一冊。誰も気づかない。

けれど気づいたことがあった。彼女はこのところ、書き込みのある本を探すように目が動くのだ。パラパラとめくる指が、本文を読まずに余白を探る。誰かの間違い、誰かの怒り、誰かの明日への頼りない予約。

値札のつかない言葉が、地下で静かに増えていった。

秋になって、ファンドから二回目の連絡が来た。今度は全国の公立図書館への、同じ条件のオファーだという。完璧な網が、一枚ずつ、街に降りてくる。市場価値のある記憶は資産となって残り、それ以外は、処理効率のよい方法で消える。合理的で、静かで、誰の非難も受けない終末だった。

木曜日の朝、ごみ収集車の音が裏口に近づいた。書庫の彼女は、引き出しの中の一冊を、ポケットに滑らせた。そして今日のリスト、四千二百冊の前に立つ。印鑑を持つ手が、いつもの位置に乗った。

冷房の風が、凍った運河を這う。何かが静かに崩れ始めていることに、世界はまだ気づいていない。値段がつくものだけが残る世界で、値札のつかない言葉は、誰のものになるのだろう。

彼女は、最初の一冊に、済みの印を押した。

夜
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