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銭湯はまだ、地下水を孕む

第 98 話 / 全 101 話 2026.10.04 23:17 配信 毎日ショートショート編集部
銭湯はまだ、地下水を孕む

私はこの銭湯の番台にいる。開店は三十年前で、私が生まれた年と近い。浴室のタイルは水色で、壁画は富士山ではなく、雪の残る北の山だ。誰が選んだのかを知っている者は、もうこの町にいない。

常連は十三人。ロッカーの鍵は紛失と補充を繰り返して十六本ある。午後になると脱衣所のブラウン管が点き、北国を舞台にした古いドラマが再放送される。雪が降るたび、人が帰ってくる物語だった。先週、あの名優が死んだ。知らせは電テキのように客のあいだを駆け巡り、湯船の中で知った爺さんが一人、長いあいだ顔を上げなかった。湯の中では、泣き声は蒸気に紛れる。

帰り際、連中は駅前の発売所へ寄る。三連単、ワイド、馬連。当たった話は聞かない。「人生というレースには、勝ち逃げがないんだよ」と爺さんは言う。「だから、いいんだ」

二十六歳で「もうパパ」になった客がいる。夜勤明けらしく、いつも目を赤くしてやってくる。湯上がりに自販機のコーヒー牛乳を一本買って帰る。先日、赤ん坊の写真を番台に見せてくれた。小さな拳を握っていた。同じ頃、駅前ではタワーの模型を並べた展示会がやっていた。彼はどちらも褒めた。大人というのは、そういうふうにできるのだ。

番台の脇には、笑っている女優の古いポスターが貼ってある。三十年分の湯気に焼けて、もう誰が笑っているのか分からない。それでも客は、毎回鏡の前で髪を整える。綺麗なものは、色が褪せても綺麗だからではない。褪せ方まで知っているからだ。

先月、地主から立ち退きの話が来た。駅前に再開発のタワーが建つらしい。説明に来た若い男は、賠償金と工期と将来の地価を丁寧に並べた。あまりに丁寧だったので、余計に腹が立った。常連たちは黙って聞いていた。そして翌日から、番台に馬券を置き始めた。

「閉店する日を当てよう」。券の裏に日付を書いて、私が預かる。的中した者は、配当の全額をこの店の湯加減——つまり私——に委ねる。馬鹿な賭けだ。しかし申し込みは毎日増え、引き出しは厚くなった。指で撫でると、紙の歯車のような音がする。老いと薄給に見捨てられた人々が、最後に賭けられるものなど、もう時間くらいしかない。

銭湯はまだ、地下水を孕む 挿絵

私は何もしない。野心はある。夜、湯船を見ながら、町ごと湯に沈んだらどんなに静かかと考える。タワーの窓の明かりが湯気にぼやけ、配当金も工期も、すべてふやけて溶けていく。資本は水に弱い。だが私の手に、沈める力はない。だから私の抵抗は、毎日湯加減を半度ずつ上げていくことだけだった。客は皆、気づいていた。誰も文句を言わなかった。

それから十日ほどして、給湯器が死んだ。業者は三日後と言った。ところがその夜、湯船は四十二度に保たれていた。ボイラーは冷たく、電気は入っていない。湯だけが、まるで地下の誰かに温められているように。

翌朝、水色のタイルの目から、細い湯気が立っていた。床下で何かが息をしている。湯面に朝日が差すと、湯気は白い柱になり、浴室の古い時間を一本残らず貫いていた。私はそれを見て、綺麗だと思った。世界の終わりとはこういう形なのかもしれない。破壊ではなく、地下の何かが優しく顔を出すことだ。私はいつから、この終わりを待っていたのだろう。

「ここは昔、湯の出る町だったよ」と爺さんが言った。「埋めて、舗装して、忘れただけ。土地は嘘をつくのがうまいが、忘れるのは下手だ」

三日後、外のマンホールから湯気が上がっていた。歩道に白い筋が幾本も立ち、まるで冬の町のように見えた。調査会社の人間が採寸し、測量器を畳み、首をひねって帰った。駅前の建設予告の看板に、油性ペンで「工事延期」と書き足してある。インクの黒が、湯気で滲んでいる。

賭けの日付は次々と外れていく。延びる延期に、連中は悔しがって笑う。私は外れた券を捨てずに引き出しへ戻す。厚みが増す音が、なんだか優しい。

今夜も給湯器は死んだままだが、湯は四十三度。常連たちはいつもより長く湯に浸かり、誰も名残を口にしない。私は新しい一枚の券を取り出し、万年筆で書いた。明日の日付ではなく。この町に湯が戻ってくる日でもなく。

その券が当たる日、配当は誰が払うのだろう。地下の何かが用意してくれるのだとしたら、私は何を受け取ればいいのか。湯気の柱の根元で、地中の何かはまだ動いている。番台の時計は少し遅れ始め、私は、その遅れをただ眺め続けていた。

夜
毎日ショートショート編集部

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