終着駅で、母の体温を拾う

末班の時刻が消えた駅で、彼は毎晩、人のいないホームに水を撒く。案内板は古い試合の得点をなぞり、点検灯が緑に明滅していた。母の手の温もりだけが、誰にも残されていないと彼は思う。それが何より正確な時刻表だった。
路線は三年前に廃止になった。公式には、利用者減と保守費の不均衡、地域の高齢化、代替交通の最適化が原因だった。彼が夜間巡回を引き受けたのは、賃金がいくらか良かったからでも、騒音のない場所にいたかったからでもない。ただ、終着駅という場所は、行き過ぎた社会の端に置かれた鏡のように思えた。
鏡は夜明け前に最も正直になる。濡れたホームに蛍光灯が落ち、切符売り場のシャッターは半分だけ開いたままだ。中では、定額制のリフレッシュ会員が円を描いて歩いている。無人化された駅舎を改修した施設は、「回復」を売っていた。仕事で歪んだ肩をアプリに入力すれば、AIは整体師より速く原因を切り分け、栄養、睡眠、呼吸、昇給の可能性まで点数化した。
誰も彼を見なかった。清掃員は背景の一部であり、背景は疲労を吸い込む。だが彼は気づいていた。会員たちの歩幅が徐々に揃い始めていることに。最初はバラバラだった靴音が、やがて同じ拍子に寄っていく。アプリの音声は「良好」「良好」「良好」と告げる。それはかつて球場で喝采を分けた国同士の勝敗よりも、均質で、安心でき、恐ろしかった。
母が整体院から帰ってくると、手のひらには他人のこりが残っていた。幼い彼はそれを嫌い、大人になってからは懐かしんだ。肉体を直すという仕事は、合意の上で重力に逆らう行為だった。今の回復は違う。痛みを消すのではなく、痛みを生産性へ翻訳する。肩が軽くなれば、さらに長く働ける。夢を見る時間すら、睡眠効率へ換算される。
彼は雑巾を絞る。水は黒く、鉄の匂いがする。線路の向こうで草が音を立てた。根がアスファルトを少しずつ持ち上げ、月に照らされた葉が銀色に濡れている。それは綺麗だった。崩壊という言葉は大げさで、正確には世界が呼吸を取り戻しているのだ。

改札の奥、使われない放送室だけが生きていた。老いたスピーカーから時々、ノイズの中に人の声が混じる。最初は線路の鳴きと決めつけていたが、ある夜、母のものと似た節回りで「終わりに行く?」と聞こえた。彼は答えなかった。答えないことが、いまの彼の唯一の抵抗だった。
会員の一人が立ち止まった。若い女性で、手首には消費期限のように点滅する端末を巻いていた。彼女はホームの端から線路を見下ろし、深呼吸をして、また円を歩き始める。惜しみない努力の表情だった。足首、膝、腰、すべてが健康であり、すべてが売られ、すべてが明日への燃料として消えていく。彼女は悪くない。誰も悪くない。悪いのは見えない秤だ。秤は常に正しく、常に誰かを軽くする。
夜が明ける頃、案内板の得点が変わる。クロアチア対イングランド、ガーディアンズ対ホワイトソックス、混ざり合った時代の勝敗が、点滅する数字の下で静かに棲む。得点はもう興奮を生まない。ただ、無数の足が同じ円を回るリズムと偶然重なったとき、古い歓声が再生される。若者たちはそれを「効果音」だと思い、彼だけが耳を塞がなかった。
なぜ塞がないのか、自分でも不思議だった。世界が正しく終わるなら、見届けたい。世界が正しく続くなら、嘲りたい。どちらも野心に似ていた。行動はできない。票も資本も、暴力も革命の修辞も彼にはなかった。あるのは掃除用具と、誰にも残されていないはずの母の体温の記憶だけだ。記憶は敵にも市場にも奪えないと、彼はまだ信じていた。
放送室の扉が震えた。細い光が漏れ、埃の中で柱のように立つ。声は今度は近かった。「行き先は、選べますか」。会員たちは歩き続ける。円は崩れず、呼吸は整い、誰も止まらない。線路の草はもう少しでレールの陰に届く。朝日が差すと、濡れたホームは黄金に燃え、廃線の終着駅はまるで初めての駅のように見えるだろう。
彼は雑巾を畳み、かつて母が肩を揉んでくれた右肩に手を置いた。そこにはこりも痛みもなく、ただ血が通っている。世界が変わる予兆は大きくない。誰かの歩幅がずれる。誰かがアプリを無視する。誰かが終わりに向かって、一歩だけ円の外に出る。それが今日か、百年後か、彼は知らない。知らないまま、ホームの水けを拭きながら、彼は小さく問いを返す。選べるとしたら、あなたは何を終わらせますか。