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修復室の奥で踊る女

第 86 話 / 全 88 話 2026.10.04 01:08 配信 毎日ショートショート編集部
修復室の奥で踊る女

修復室は地下二階にある。窓はなく、換気扇の低い唸りだけが時刻を知らせる。彼女はここで十二年、人の目に触れない絵と暮らしてきた。

今回預かったのは、総合商社の創業一族が所蔵する風景画だった。展示の前に修復するのが常だが、今回は事情が違った。一族の資産が港湾再開発の失敗で揺らぎ、コレクションの一部が売りに出される。売る前に、少しでも良い状態に見せかけるためである。

修復とは、本来、傷を癒すことだ。だがこの仕事では、売れるように綺麗にすることと、癒すことが同義になっていた。彼女は長い間、違和感を抱きながら、それを受け入れてきた。給料が降りるのだから。

X線を当てた瞬間、彼女は息を止めた。キャンバスの裏側、百年前の絵の具の下に、もう一人の女がいた。両腕を天に掲げて、何かを笑いながら踊っている。髪は乱れ、腰布は剥がれかけ、ひどく生々しく、ひどく自由だった。

上の風景画は丁寧だが、誰も見ていない絵だった。丘と雲と、意匠の籠もらない空。市場に出せば、画商たちは肩をすくめるに違いない。だが下の女は違う。百年前、誰かがこの女を描いた途端に、市場を見据えて消したのだ。価値のないものとして、あるいは、価値がありすぎるものとして。

彼女は文献を調べた。作者の名前から、消された制作年をたどった。経済恐慌のさなか、この画家は一度だけ大きな依頼を受け、失敗した。踊る女の絵は、依頼主に拒絶され、画家自身が上から風景を塗り潰したらしい。恐怖と、かすかな期待を込めて。

修復室の奥で踊る女 挿絵

修復室の照明の下で、彼女は女を長いこと見つめた。女は描かれた時から、ずっと踊り続けている。誰にも見られない場所で、それでも踊り続けている。彼女はふと、ここ何年も心に溜まっていた澱を思い出した。展示室で観客を数える日々。企業のロゴが入ったパネルの前で、絵が背景になる日々。富の移動のために修復される絵。修復されてもなお、誰の心にも届かない絵。

世界はずいぶんうまく回っているように見える。だが彼女には、あの風景画のように、きれいに塗り潰された何かが下敷きになっているように思えてならなかった。踊る女は、その下敷きの姿のひとつに過ぎない。金融、雇用、未来。何もかもが、売りに出される前の絵のようだった。

検討会で、彼女は下絵の存在を報告した。学芸員たちは目を見張ったが、すぐに別の顔になった。下絵を暴けば絵の価値は複雑になる。売買が遅れる。一族の代理人が嫌がる。「経過観察で」ということになり、決着は保留された。全員が、誰かが判断するのを待っていた。

その夜、修復室にひとりでいると、絵の表面に、変化があった。確認したはずのヒビが、夕方よりも長く伸びているように見えた。ヒビは女の頬のあたりから這い出し、風景画の空を、静かに、たどたどしく裂いていった。

彼女は修復道具に手を伸ばしかけて、やめた。修復とは、癒すことだ。だが、百年前に誰かが塗り潰したものを、もう一度塗り潰すことと、同じなのだろうか。それとも、ヒビを広げて、踊る女に光を当てることこそが修復なのだろうか。

換気扇の唸りが途切れる間、彼女は質問を立て続けた。誰も答えない質問を。ヒビは夜のあいだに、もう少し伸びていた。彼女は、朝になったら何を報告するかを考えながら、踊る女を眺め続けた。女はいまも、誰かが見ているか見ていないかなど知らぬ顔で、百年前からの二拍子を踏んでいた。

夜
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