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インクの海に沈む二つの星

第 90 話 / 全 101 話 2026.10.04 09:04 配信 毎日ショートショート編集部
インクの海に沈む二つの星

夜勤の彼は、インクの匂いで時間を測った。朝版の香りは薄く、深夜版の香りは濃い。それが唯一、機械が嘘をつかないと証明する方法だった。だがこの夜、印刷機は初めて、同じ香りを二度吐き出した。

印刷工場の夜は、白い。天井の蛍光灯が紙の粉に散乱して、雪の中にいるような明るさだ。彼の仕事は、折り目がずれた新聞を拾い出すことと、ラインのリズムを耳で聞くことだ。十年やれば、機械の咳払い一つで何が起きるかわかる。部品の摩耗、紙詰まり、版の狂い。すべて音が先に教えてくれた。

異変は、二重刷りから始まった。

一枚の紙に、同じ記事が二度印刷されていた。網点が数ミリずれて、文字の輪郭が二重の影を落としている。最初は版のずれだと思った。だが版を交換しても、次の紙も同じだった。同じ一面が、同じ場所に、二枚重なって現れる。まるで世界が、念のためもう一度刷り直しているようだった。

休憩室で、彼はいつものようにスマートフォンを開いた。画面を二つに割る機能があって、左半分と右半分で、まったく関係のない世界を同時に眺めるのが好きだった。その夜、左にはアルゼンチンのサッカー中継、右にはブルキナファソの砂漠の映像が流れていた。地球上で最も距離のある国々が、四インチのガラスの中で隣り合っていた。審判の笛と、風の音が重なった。

不思議なことに、二つの画面の端に、同じ形の雲が写っていた。

彼は画面を閉じ、工場に戻った。ラインから出てくる新聞を拾い上げる。一面の写真は、今日の夕方、実際に起きた出来事だった。隣の面には、明日の予定が並んでいる。それはいつものことだ。新聞は未来を印刷する職場だ。今日の夜に、明日の朝を刷る。世界は、常に一枚先を走っている。

インクの海に沈む二つの星 挿絵

だがその夜の二版目の途中で、彼は気づいた。出てくる一面の見出しが、さっき刷ったものと、一字違いもなく同じだ。同じ記事、同じ写真、同じ日付。二枚の「明日」が、ベルトコンベアの上で並んで流れてきた。

彼はその一枚を、制服の内ポケットに入れた。誰にも言わない。言ったところで、検査の人間が機械を調整し、原因不明の記録が一冊の帳簿に書き留められて、終わるだけだ。工場はそのような場所だった。バグは工程書の隅に封じ込められ、世界は裏面のない一枚として、朝の町に配送される。

持ち帰った新聞をアパートで広げると、一面の空欄が目に留まった。写真の位置に、四角い白い枠だけがあった。キャプションは刷られていた。「本日午前、誰もいない場所で、何かが始まった」という、六行の短い記事。彼はその文を三度読んだ。イベント欄にも、株価欄にも、テレビ欄にも、明日以降の日付はなかった。記事は今日で終わっていた。

翌夜、工場に着くと、ラインが止まっていた。上司は、版が届かないと言った。製版所との回線に障害があって、今夜の面が送られてこない。だから彼らは、誰も何も刷らない夜を過ごすことになった。白い照明の下で、機械は黙り、ベルトは静止した。彼は十年ぶりに、印刷機のいない工場の音を聞いた。紙の粉がゆっくりと沈んでいく音のような、ほとんど音でない何か。

その沈黙の中で、彼は内ポケットの新聞を思い出した。白い四角の枠。誰もいない場所で始まった何か。もし、世界というのは毎晩刷り直される一枚の紙で、その原版が今夜、どこかで複製され始めているとしたら。重なった二枚の明日のうち、どちらか一枚が余分になるとしたら。

片方は保存されるのか。それとも、両方とも捨てられるのか。

ラインの向こう、搬出口のシャッターが風で揺れた。外は夜明け前で、配送トラックのエンジン音もない。町はまだ、今日の新聞を待っている。誰も知らないうちに、世界はもう一枚先に行っているのかもしれない。同じ見出しが、別のどこかでもう一度、静かに刷り上がっているのかもしれない。

彼は空っぽのベルトコンベアに座り、朝の光が工場の床に差し込むのを見ていた。インクの香りが、いつになく薄かった。まるで、刷るべきものが全部、どこか別の場所で刷られ終わった後のように。

夜
毎日ショートショート編集部

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