誰も見ていない空の午後

毎週日曜の午後、彼は河川敷の模型飛行機クラブの飛行場に来る。木と布とゴムでできた模型機を放てば、風がそれを持ち上げ、数秒だけ、世界がまだ続いているように見えた。
メンバーは年々減っていた。三年前は二十人いた。今は五人である。
若い連中は全員、画面の中に行ってしまった。もう飛行機は作らない。作るより、見る方が速いからだ。彼らに言わせると、模型機を一機組み立てる三週間の間に、世の中では何十人もの有名人が謝罪し、何本もの番組が終わり、何百億円もの商品が消費される。部品を削る指先で、画面を滑らせる。
世界は、いつから見ることに飽きたのだろう。それとも、見ること以外、何もできなくなったのか。
画面の中では、女優が会見の壇上で頭を下げ、長年続いた昼の情報番組が最終回を迎え、人気者の誰かが誰かと結婚し、別れ、謝罪した。誰かが壊れるたびに通知が鳴る。破壊は即座に配信され、忘却も即座に配信された。人々は一生分の謝罪を見届け、一生分の別れを見届け、自分の人生だけは一切見ずに年を取っていった。
それでも彼は飛ばす。ラジコンもカメラも付いていない、ただの模型機だ。風に乗った布の翼が震え、離れる瞬間だけ、世界の全システムが一瞬忘れられる。
つまらない老いぼれの趣味だと言われても構わない。五十年来、彼はただ、追い風の直前に立つことを覚えている。
その日も、日曜の午後、彼は一人で堤防に立っていた。仲間は誰も来なかった。草は伸び放題で、滑走路代わりのコンクリートのひび割れに、小さな黄色い花が咲いていた。
そして、彼は気づいた。画面が黙っていたのだ。

通知が鳴らない。謝罪も、終了の告知も、誰かの私生活の崩壊も、新シリーズの配信開始も、何も来ない。街を流れていた顔はみな、手にした画面に俯いたまま、石のように動かない。回線は生きている。電源も落ちていない。ただ、流れてくるものが、途切れていた。
最初、彼は大規模な故障かと思った。だが風の匂いが違っていた。堤防の草の揺れ方も、河の水音も、いつもと同じなのに、全体として世界が、見られていないことに安堵しているように見えた。
木片と布の模型機が、風を受けて気持ちよさそうに舞い上がる。撮影者はいない。視聴者もいない。消費される者も、消費する者もいない。
それは予兆だったのかもしれない。世界が「見られること」をやめた瞬間。百年かけて築いた見世物の城が、反響のない中で、静かに建て替えを始めたのかもしれない。
彼は機体を追いかけて走った。十年ぶりの全力疾走だった。膝は痛い。肺は叫ぶ。それでも彼は走った。この空を、誰かが見ておかなければ、という理屈の通らない義務感に突き動かされて。
着陸地点に機体が降りる頃、夕日が河面を焼いていた。芝生に座った彼は、誰も見ていない空を見上げた。空は見返さなかった。それでいい。それでこそ、空だ。
世界の終わりとは、こういうものなのかもしれない。爆発も、断末魔もなく、配信が静かに途絶えただけの、穏やかな午後。
では、この後どうなるのか。見る者がいなくなった空は、まだ空なのか。そして彼は、土曜の朝に届かなかった新聞と、棚の半分が空のままだったスーパーを、どう解釈すべきなのか。
彼は翌週も来るつもりでいた。機体の翼の布は、少し張り替えておく必要がある。風は、問いに答えを出さないまま、河堤をいつもの通りに抜けていった。